2021年10月16日土曜日

社会の変化と日本官僚組織の変化  

            社会の変化と日本官僚組織の変化

           富山大学・ハリウッド大学院大学 

                清家彰敏

序章

 本稿は元大蔵事務次官(現財務省)・元国務大臣の相沢英之氏、元通商産業事務次官(現経済産業省)・元参議院議員の矢野俊比古氏らのオーラル(伊藤隆東京大学名誉教授・清家彰敏、伊藤・清家(2021))など、経済産業省などに繋がるオーラルを資料とし、論者が財務省財務総合政策研究所特別研究官、文部科学省科学技術政策研究所客員研究官と政治家・官僚・経営者・非営利団体代表などと交流を行ってきた経験を下に、官僚組織の変遷と将来について考察を行う。

研究のフレームワークとして、本稿は、時間軸における過去・現在・未来の3つの社会変化が、どのような組織変化をもたらしているか、を論じる。空間軸においては、政府と営利組織と非営利組織は相互作用を与え合い、補完し合い、起業と廃業の生滅を繰り返し、学習模倣しあってきた。現在は政府と営利組織は海外との関係で分断が行われターゲットポリシーは民主主義成熟国家として行えない。それに対して政府と非営利組織は連携が社会から期待されている。日本社会は欧米へのキャッチアップを目指した戦後復興、高度成長時代は夢を追った。その後の民主主義成熟の時代は個人の既得権を守り現在に至っている。

2.過去 高度成長期

高度成長期の自由民主党55年体制の下では官僚主導型政治といわれた。政治は欧米諸国へのキャッチャアップを目指し、国民は欧米諸国の生活を理想とし、官僚組織は欧米モデルを追求しやすいように、ボトムアップダウン型になった。官僚組織は、戦前戦中の統制経済の組織モデルで、目標が戦争遂行から米国のキャッチアップに変わった。終身雇用、年功序列であり、民間企業と異なり省庁ごとの組合による組織ごとの賃金体系は成立しなかった[1]

この構造において、官僚は、高度成長期前半は事務次官までジョブローテーションを繰り返し50代前半で昇進し、50代後半には選挙を経て大臣、総理となった。世界の変化は日本政府の変化をもたらし、日本社会の変化をもたらしてきた。この社会において官僚組織は自由と民主主義の下、変化し続けている。バトワール(2019[2]によると、通商産業省事務次官は1950年代後半入省後24年、60年代前半28年、後半29年、1970年代前半31年、1976年退官まで32年と昇進は遅くなっている。22歳で入省して54歳で第2の人生へ向かえる。

高度成長期においては、官僚は内部組織でドラッカーのいう長期的競争の原理で職務を遂行した。矢野元通商産業事務次官の場合1948年入省13年で8部門ローテーションし62年課長、1.5年強に1回ローテーションで課長になった。73年審議官へ昇進、10年間で7回異動、1.5年弱に1回である。80年事務次官、81年退官。事務次官まで64回異動で1.5年に1回異動である。平均1.5年に1回のローテーションである。

組織間関係では、政界、外郭団体、業界と連携した。長期的競争での最終勝者は事務次官でその後政界へ転出した。相沢元大蔵事務次官の場合は局長になって8年間に5回異動、事務次官は1年間で、74退官、平均1.5年に1回である。この間田中角栄総理など歴代総理と財政のパートナーとして活動、76衆議院議員、90国務大臣経済企画庁長官になり03総選挙で落選まで27年間活動した。退官者は外郭団体、業界へ転出した。

護送船団方式と言われた官僚組織は、組織間関係の他省庁、外郭団体、業界の担当者とヒッペル(1991)のユーザーサプライヤーインタラクションで新しいアイデア、政策、制度を創出してきた。今井・伊丹・小池(1982)の中間組織は大蔵省から始まり官僚組織から産業界まで日本全体で成立していた。矢野(1982)の「日本株式会社」である。

高度成長期の構造は、①受益者側は業界で、業界は欧米へのキャッチアップを目指し計画と要望を作り、②各省庁のイノベーション担当者がその要望を取り上げ、それを、③各省の大臣官房の計画の枠の中で、④各省の資金課が取りまとめ、⑤大蔵省主計局の主計官が財政投融資、市中銀行融資も考慮して予算を査定し、⑥業界がそれぞれの企業の計画に基づき実行を行い、⑦その成果を各省庁が評価し、⑧業界を各省庁が行政指導を行い、その後フィードバック①以降を繰り返してきた。護送船団方式といわれた構造である。

各省庁は経済を加速させるアクセル官庁(俗称)と規制を強め経済を減速させがちなブレーキ官庁(俗称)に分かれる。各省庁資金部門は所管産業から情報を集める(ボトムアップ)。各省庁資金部門は大蔵省主計局に情報を集中させる(ボトムアップ)。大蔵事務次官、主計局長は政治家と協議、予算の大枠を決定(トップダウン:配分の決定)。主計主査による各省庁の予算・投融資の査定(ミドルアップダウン)。主計局次長・主計官から主計主査によるフレキシブルトップダウン縦調整が行われた。主計官間のネットワーク組織横調整である[3]。年功序列は変わらず、人事は長期競争による昇進と系列(外郭団体・民間)への転出、それによる系列組織強化であった。

省庁は、通商産業省などの業界を所管するライン官庁と科学技術庁などの業界を所管しないスタッフ官庁に二分された。各省庁間では人事交流があり大蔵省入省で他省の事務次官になることもあった[4]。また通商産業省に代表される業界を支援する「アクセル官庁」と規制する「ブレーキ官庁」に対して予算による調整が大蔵省となった。ブレーキ官庁の規制から逃れる情報を通商産業省産業資金課が業界から集め大蔵省に上げ、ブレーキ官庁を押さえる予算査定で、高度成長が加速されることも多かった。

この構図は、ターゲッティングポリシーが許されるキャッチアップ型国家の段階まであった。日本が世界の民主主義成熟国家(本稿で現在の日本を「民主主義成熟」国家と定義)として世界の主要国となってからは、海外と社会の変化に合わせて官僚組織は変化した。

3.民主主義成熟時代

1980年代以降ベンチャー投資ブームが起こった。この主役は通商産業省である。大蔵省の財務支配からの脱出をもアクセル官庁は試みる、その典型が通産省ベンチャー投資ブームである。権限の一部が、大蔵省主計官から通商産業省へ移った。NTTの民営化による株式売却収入を原資とした基金で、通商産業省は研究開発等への出資を行った。組織間関係でのインタラクションは通商産業省の機能である。民主主義成熟時代の組織は、終身雇用組織が米国よりの外圧による産官分離でネットワーク分散型組織へ、社会における派遣社員の登場と急増の社会現象が起こった。1991年のバブル経済崩壊以降、政治主導型が強まった。国民は安寧な生活でリスクを避け、政治に無関心で、既得権が非常に多くなった。政治は欧米との競争の時代となり、トップダウンの大統領制を理想とし、中曽根康弘内閣、小泉純一郎内閣において、大統領型の総理が議員内閣制下で行われた。

総理のリーダーシップは、日本経済の拡大とともに、海外の政治指導者、巨大企業経営者との緊張の中で徐々に強化された(牧原出,2013)中曽根康弘内閣(198211月~8711月)はリーダーシップ強化、内閣強化として、官房長官を各省に対して優越させ、審議会などを活用した。橋本龍太郎内閣(19961月~987月)は省庁を削減(城山・細野,2002)し、内閣に特命担当大臣を設置し、各省を越えた政策決定、調整を行わせた。大蔵省が解体され、1990年代からの護送船団方式への内外の批判と行政改革により、財務省、金融庁に分離し、予算・財政投融資と銀行融資の分離が起こった。小泉純一郎内閣(20014月~069月)は内閣官房に企画権限を付与し、各省庁に基本方針を出した。主計官の機能は剥ぎ取られ縮小されたが、投融資ミックスの司令塔として、内閣の経済財政は財務省出身の首相秘書官が担当した。内閣官房は200名から800名へと拡大させた。

第2次安倍晋三内閣(201212月~)は、官房長官が全体を掌握し、可能な財政政策の範囲で、公約に掲げられた項目について諮問機関の審議で意思決定を行った。官僚組織は政治主導のトップダウンのブレイクダウン型組織へと変化していき、安倍晋三内閣において、人事は人事局によって、政治による審議官以上の選別が行われるようになった。また官僚が、各省庁のキャリアコースから政治任用で外され、官邸、内閣府で政治家の下で働くケースが多くなり、内閣府は数倍以上に巨大化した。官僚が、省庁を早期退官し、政治家、民間企業、ベンチャーを起業するケースが増加し、インフォーマルながら官僚採用市場も登場した。また大臣によっては、官庁の性質をトップダウンによって、変化させる事例も出てきている。例えば、2019年9月から2021年10月の小泉進次郎環境大臣はスタッフ官庁である環境省をアクセル官庁化した。民主主義成熟時代の官僚は一貫して日本エリートの横のネットワークの発進点として機能してきた。

民主主義成熟時代は、①国民と日本の影響を受ける世界が受益者側となり、②各省庁を退官した若手国会議員と出身官庁の官僚が国民と世界の要望を取り上げ、それを、③自由民主党の政調会の計画の枠の中で、④幹事長が取りまとめ、⑤政治家(総理・内閣)と首相補佐官の政策を受けて財務省主計官が予算査定して、⑥国会議員がそれぞれの地域、所管官庁が企業への予算執行を監督し、⑦国民と世界とマスコミがその成果を評価し、⑧国会議員と官庁が指導し、マスコミは報道し、司法が裁定し、その後フィードバック①以降を繰り返す構造となった。成熟した民主主義国家の複雑な構造となった。

史的に組織の力学の視点で考察すると、時代ごとに、立案実行、査定展開のどちらかが力を強め、主体となってきた。その結果、立案実行が主体となるとボトムアップ、査定展開が主体となるとトップダウンにといった力学にもとづき組織設計が行われた。

終章 未来データドリブンの時代の官僚組織

日本の官僚組織の変遷について考察を行った。キャッチアップ時代は夢を追い、民主主義成熟時代は既得権を守り、未来のデータ至上主義の時代「ユヴァル・ノア・ハラリらによって論じられている、人類には自由な意思など無い」ともいわれる社会ではデータがビジョンを描く。SDGsで社会に目標が与えられたときもデータドリブンであることは言うまでもない。データドリブンの時代に官僚は機械学習と連携する作業を要求される。村瀬俊朗・王ヘキサン・鈴木宏治[5]2021)機械学習の強みは今まで人間でしか実現できないと考えれていた分類や特定の作業を、機械が学習を通して作業の精度を高めることができるとしている。ルティーン業務を24時間態勢に、問題解決案を機械学習によって複数提出選択する。永山晋[6]2021)は機械学習によって得られた結果の解釈可能性の低さを、課題としている。機械学習過程をブロックチェーンで保存し過程検証作業を的確に行える。官僚組織が大きく変革する未来が予見できる。

 参考文献

伊藤隆監修・清家彰敏監修・中澤雄大編集(2021)『回顧百年 相沢英之オーラルヒストリー』かまくら春秋社

日本政策投資銀行(2002)『日本開発銀行史』日本政策投資銀行

城山英明・細野助博編著(2002)『続・中央省庁の政策形成過程』(中央大学出版部)

今井賢一・伊丹敬之・小池和男(1982)『内部組織の経済学』東洋経済新報社

牧原出(2013)、政策決定における首相官邸の役割、2013627

https://www.nippon.com/ja/features/c00408/

矢野俊比古(1982)『日本株式会社の反省 わが国産業の新しい活路』日本工業新聞社

Hayek,F.A.(1945)”The Use of Knowledge in Society”,American Economic Review,Sept.

Hippel,E.(1988)The Source of Innovation,Oxford Press,NY.

Williamson,O.E.(1986) Economic Organization:Firms,Markets and Policy Control,Wheatsheaf Book Ltd,1986.



[1] 外郭団体においては団体ごとの賃金体系が行われたため、外郭が高給のことが多く、出向すると出向期間は給与が上がるとも言われた。

[2]バトワール「通産省の産業政策と通産省エリートの役割──高度経済成長期を中心に」『横浜国際社会科学研究』第24巻第Ⅰ号file:///C:/Users/seike/Downloads/3-Nematov.pdf2021920日検索58

[3] 伊藤大一は大蔵省内という同一組織内に歳出の主計局と歳入の主税局が存在し、情報を独占し、情報の非対称性によって大蔵省が他省庁、政治家に対してアドバンテージを持ったとしている。これは大蔵省主計官の自律性を高め、その結果、上記の投融資ミックスを可能とした。伊藤太一は通産省が業界との産業ネットワークからの情報をもち、大蔵省が銀行からの金融ネットワークからの情報を持っていたと指摘、主計官はその2つのネットワークからの情報の結節点で、2つの情報を統合できる存在であったとしている。

[4] 企業グループの系列組織と同じ構造。相沢オーラル「各省次官級へ多いときは同期で5人ほど行った」

[5] 「アンケート調査を超えてーー自然言語処理や機械学習を用いたログデータの活用を模索する」『組織科学』白桃書房Vol.55No.1

[6] 「現実の説明と制御:社会科学おける機械学習の活用」『組織科学』白桃書房Vol.54No.4


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