2023年9月9日土曜日

日本政府の情報政策史についての試論 An Essay on the History of the Information Policy of the Japanese Government

 日本政府の情報政策史についての試論

An Essay on the History of the Information Policy of the Japanese Government

富山大学 清家彰敏   東京大学 清家大嗣

 Akitoshi Seike      Hirotsugu Seike

 


緒言

本研究は、日本政府のキャッチアップ期から現在までの情報政策を論じる。情報政策史について、官庁競争、官邸主導、従属的等を用語として、省庁の報告資料、通商産業事務次官矢野俊比古氏、大蔵事務次官相沢英之氏等のオーラル[1](伊藤隆・清家彰敏)などを元に、概説しようとする試みである。

2.通商産業省と郵政省の官庁間競争

 1960年代からの情報政策は、通商産業省(現経済産業省)、郵政省(現総務省)の間の競合、国会論争で、日本政府の政策が形成された。1970年代日本では産業におけるコンピュータ導入が進んだ。通商産業省は1967年『情報処理および情報産業の推移と現状』を発表した。1969年『情報処理、情報産業施策に関する答申』を行った。1971年『70年代の通商産業政策――産業構造審議会中間答申』を行った。通商産業省の組織では1969年重工業局に電子機器課、1970年に情報処理機器担当課、1971年「地域情報システム委員会」設立、1972年「財団法人映像情報システム開発協会」設立、1973年機械情報産業局(電子機器課、情報処理振興課、電子政策課)を設置した。

郵政省は1971年「第一次回線開放」措置を講じた。1971年「同軸ケーブル調査会」、1972年「多摩CCIS実験構想」を発表し運営主体として「社団法人生活情報システム開発協会」を設立した。1972年「有線テレビジョン放送法」が成立した。

高度成長期の構造は、①受益者側は業界で、業界は欧米へのキャッチアップを目指し計画と要望を作り、②各省庁の担当者がその要望を取り上げ、それを、③各省の大臣官房の計画の枠の中で、④各省の資金課が取りまとめ、⑤大蔵省主計局の主計官が財政投融資、市中銀行融資も考慮して予算を査定し、⑥業界がそれぞれの企業の計画に基づき実行を行い、⑦その成果を各省庁が評価し、⑧業界を各省庁が行政指導を行い、その後フィードバック①以降を繰り返してきた。護送船団方式といわれた構造である。

情報政策による情報通信インフラ形成は政府系金融、政府系企業、民間企業まで連携しており、日本産業全体が影響を受けた。

3.大蔵省の官庁競争の調整

1973年、情報政策で競争していた通商産業省と郵政省は、大蔵省による組織一本化要求で、「財団法人生活映像情報システム開発協会」を設立した。

大蔵省の調整メカニズムは以下である。各省庁資金部門は所管産業から情報を集める(ボトムアップ)。各省庁資金部門は大蔵省主計局に情報を集中させる(ボトムアップ)。大蔵事務次官、主計局長は政治家と協議、予算の大枠を決定(トップダウン:配分の決定)。主計主査による各省庁の予算・投融資の査定(ミドルアップダウン)などが日常的に行われており、大蔵省は各省の組織企画に対して統合、人員定数などを指示できた。

4.競争の激化

1978年米国よりの電電公社資材調達問題が起こった。郵政省は1980年電気通信政策局を設置した。

1981年郵政大臣電気通信政策懇談会「80年代電気通信のあり方」という報告書を提言した。1982年郵政省、データ通信自由化法が通商産業省などの反対で廃案になった。「データ処理のための回線利用の自由化のための公衆電気通信法改正案」成立。

両省の競合は激しく、国会における通商産業省からの情報政策の法案に対して、郵政省からの反論、郵政省からの情報政策の法案に対する通商産業省からの反論といった過程で、議論が形成された。郵政省は電電ファミリーという通信企業を傘下に置き、護送船団方式で、通信産業を高度成長させた。日本がキャッチアップ型国家である間は、このようななターゲッティングポリシーが許された。産業創造を加速させるアクセル的な情報政策の時代であった。1985年、プラザ合意以降の急激な円高等を背景に、我が国の企業が生産拠点を海外に移す流れが強まった。しかし、日本の情報通信産業は国内に留まった。

5.官邸による強いリーダーシップ

中曽根康弘内閣総理大臣(19821127日~1987116日)は強いリーダーシップを発揮した。1982年総理主導の第二次臨時行政調査会は、電電公社民営化の方向を打ち出し、1984年「電気通信事業法案」、「日本電信電話株式会社法案」が2月国会に提出された。官邸主導の中で、郵政省は1984年には、通信政策局、電気通信局、放送行政局を設置した。通商産業省は1984年情報処理システム開発課を新設した。

1980年代以降ベンチャー投資ブームが起こった。この主役は通商産業省で、大蔵省主計局から通商産業省へ権限の一部が移った。このこともあり、徐々に情報政策も通商産業省が主導するようになった。通商産業省は公社民営化による株式売却収入を原資とした基金で、ベンチャーなどの研究開発への出資を行った。政治は欧米との競争の時代となり、議員内閣制の下で、トップダウンができる大統領型の総理を理想とした。中曽根康弘内閣総理のリーダーシップは、日本経済の拡大とともに、海外の政治指導者、巨大企業経営者との緊張の中で徐々に強化された[2]。中曽根康弘内閣はリーダーシップ強化、内閣強化として、官房長官を各省に対して優越させ、情報政策では審議会など有識者を積極的に活用した。

1993年頃から携帯電話普及開始期になった。郵政省(現総務省)1994年に端末売切制度を導入、1996年には携帯電話の料金認可制が廃止した。

6.省庁再編成

橋本龍太郎内閣(19961月~987月)は省庁を削減し、内閣に特命担当大臣を設置し、各省を越えた政策決定、調整を行わせた。

官庁間競争から強い官邸主導の時代に進んだが、その後も情報政策は、経済産業省(旧通商産業省)、総務省(旧郵政省を統合)の間で揺れ動いた。両省の立場は、通商産業省はコンテンツ、郵政省は情報通信といった切り分け論であるが、政策両省の政策のオーバーラップは大きかった。現在の経済産業省と総務省における政策形成にも影響を与えている。

1998年頃から2008年頃までの「フィーチャーフォン全盛期」郵政省(現総務省)は、様々な事業者がADSLサービスを円滑に提供することを可能とするルールの整備を2000年に行った。

20011月省庁再編成が起こり、大蔵省は財務省、通商産業省は経済産業省になり、郵政省は総務省に統合された。総務省は旧郵政省の官僚による通信政策と通信に関する国立研究機関、民営企業のインフラ戦略を統合する形で情報政策を内閣に提言するようになった。

通信機器生産額はインターネットの普及が開始した1990年代後半から減少傾向に転じ、2000年代に入ってからは急減、2000年代後半からは、スマートフォンの登場を背景に輸入が急増した。

1990年代後半PSTNからIPネットワークへの移行が始まり、国産交換機が、海外のルータ等に代替されていった。21世紀、国内の情報通信産業の急激な衰退が起こった。国内の官邸、内閣府、総務省、経済産業省の情報政策は海外の動向に従属的、スタッフ的、ブレーキ的にしか機能しなくなった。

7.小泉純一郎内閣・安部晋三内閣の情報政策

小泉純一郎内閣以降は官邸のリーダーシップと財務省がスタッフ機能を果たした。小泉純一郎内閣(20014月~069月)は内閣官房に企画権限を付与し、各省庁に対して基本方針を出した。主計官の機能は剥ぎ取られ縮小された。投融資ミックスの司令塔である経済財政は財務省出身の首相秘書官が担当した。内閣官房は200名から800名へと拡大した。小泉純一郎内閣は官邸のリーダーシップと財務省がスタッフ機能を果たした。

安倍晋三内閣は官邸のリーダーシップと経済産業省がスタッフ機能を果たした。第2次安倍晋三内閣(201212月~)は、官房長官が全体を掌握し、可能な財政政策の範囲で、公約に掲げられた項目について諮問機関の審議で意思決定を行った。経済産業省、総務省の官僚が、各省庁のキャリアコースから政治任用で外され、官邸、内閣府で政治家の下で情報政策を担うようになった。官僚が、省庁を早期退官し、政治家、民間企業、情報ベンチャーを起業するケースが増加した。

8.岸田文雄内閣の情報政策

現在の官僚組織による情報政策は、①国民と日本の影響を受ける世界が受益者側となり、②情報通信関連省庁を退官した若手国会議員と彼らの出身官庁の官僚が国民と世界の要望を取り上げ、それを、③自由民主党の政調会の計画の枠の中で、④幹事長が取りまとめ、⑤政治家(総理・内閣)と首相補佐官の政策を受けて財務省主計官が予算査定して、⑥国会議員がそれぞれの地域、所管官庁が情報通信企業等への予算執行を監督し、⑦国民と世界とマスコミがその成果を評価し、⑧国会議員と官庁が指導し、マスコミは報道し、司法が裁定し、その後フィードバック①以降を繰り返す、構造となった。

官僚組織のオンライン化が進展している。オンライン化された企画はデータドリブンによって行われることが増加している。データドリブンの時代に官僚組織は機械学習と連携する作業を要求され、官僚の個性が多様であるほど、データサイエンスの手法が生かされる。未来の自由な意思など無い時代はデータがビジョンを描く。現在の情報政策は人工知能、Web3.0、ブロックチェーンなどの先端技術の登場とグローバル化、デカップリングの可能性、革新の加速化などで、難しい局面を迎えている。

現在は、若手官僚の早期退官による政治家、欧米系コンサルタント、ベンチャー経営者への転出が加速し、官邸と官僚を中心とした元官僚の政治家、コンサルタント、ベンチャー経営者の雑多かつ錯綜する情報企画が岸田文雄内閣で溢れ、情報政策の混乱の時代と言える。

結語

本研究は、日本政府の情報政策が、通商産業省、郵政省によるアクセル的情報政策から総理のリーダーシップの強まりと国内の情報通信産業の衰退によって、徐々に海外従属、スタッフ的情報政策、ブレーキ的情報政策へと移行していった過程について、岸田内閣の情報政策までを論じた。

 

An Essay on the History of the Information Policy of the Japanese Government

†Akitoshi Seike, Univereshity of Toyama

‡Hirotsugu Seike, The University of Tokyo



[1] 伊藤隆・清家彰敏『相沢英之 回顧百年』かまくら春秋社、矢野俊比古資料などのオーラルは国会憲政資料室など、

[2] 牧原出、政策決定における首相官邸の役割、2013627


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