2024年12月27日金曜日

高度成長期の日本企業と通商産業省基礎産業局長の連携 ――元通商産業事務次官矢野俊比古氏オーラルからーー

 

        2024年度 経営史学会第60回全国大会(東京大学)自由論題

高度成長期の日本企業と通商産業省基礎産業局長の連携

         ――元通商産業事務次官矢野俊比古氏オーラルからーー

                                清家彰敏            

緒言

高度成長期の日本企業の史的先行研究について、通商産業省基礎産業局長矢野俊比古氏[1]のオーラルをもとに史的考察を行う[2]

日本の第二次世界大戦後の通商産業政策を概観すると、1947年の臨時金利調整法で金利の最高限度が規定、資金不足の企業へ復興金融公庫からの低利融資が行われ、1949年のドッジライン以降、復興金融は貸出が禁止され、1951年日本開発銀行(政府全額出資:現日本政策投資銀行)が設立され、日本興業銀行、都市銀行などと産業インフラ、企業への融資を行い、高度成長期が始まった。この融資はインフレ率より金利が低い低利融資であった。

この成長の牽引役となったのが通産省、大蔵省であった。通産省産業資金課長からの情報をもとに、大蔵省が予算をつける。矢野俊比古氏は通産省産業資金課長を経て、基礎産業局長になった。基礎産業局長になった1974年、鉄鋼業の生産量は頂点に達した。ここで、矢野局長は、2つの選択肢があったと思われる。業界の増産体制の加速か、ストップか、の2択である。本オーラルは今回その点について考察する。

2.通産省と大蔵省

通商産業省産業資金課長の情報をもとに、大蔵省主計官は、産業競争力に関わるプロジェクトに、必要資金を、予算と投融資ミックス(低金利政府系金融、高金利銀行融資、民間投資)を考慮し、査定を行った[3]。査定によって債務返済負担が変わるため、経営者の挑戦意欲に大きな影響を与えた[4]

産業資金課長の職務は矢野氏オーラル第26回によると「通商産業省の原課は補助金、出資となると一般会計から要求する。金利が付いてもいいような事業、融資は日本開発銀行などから借りる。通産省の産業資金課がまとめて大蔵省に持っていく。銀行はより高い金利であるが、財投がついた段階で融資を行う。日本開発銀行がいいのなら、政府がいいと言っていれば、俺も安心だとやった。」である[5]

3.基礎産業局長

矢野氏は産業資金課長から官房審議官などを経て、基礎産業局長1974- 1976年に就任し、企業経営者と直接連携し、産業政策のリーダーシップをとれるようになった。鉄鋼業界、石油業界などの経営者をリードして日本産業の経営を主導する立場である。

基礎産業局長として矢野氏オーラル第30回~35回は、中曽根康弘通産大臣との対応、鉄鋼凍結価格引き上げ状況、チッソ(株)日本開発銀行融資、新日鉄役員人事問題、平電炉対策の提案、鋼材価格引き上げの承認、レアメタル備蓄協会への出資、鉄鋼設備投資調整の流れ、神戸製鋼加古川3号炉、川崎製鉄(株)千葉6号炉に係わる港湾使用拡大、石油化学業界エチレン設備投資調整の流れ、石油化学業界在庫適正化ガイドライン構想(化学肥料)、石油価格受入の攻防、洗剤値上げ、苛性ソーダ業界水銀法転換問題、ダウケミカル社のソーダ工業進出構想、化学肥料業界台湾輸出問題、アルコール業界価格凍結問題などを経て、通商産業局長就任した。

鉄鋼業界の生産量は12千万トン、矢野基礎産業局長のとき頂点となった。このとき、矢野局長が、鉄鋼設備投資調整を行っておれば、その後の業界の未来は大きく変わったと思われる。

鉄鋼業は、最新技術を追求した大規模設備と投融資における借入の比率の大きさが産業競争力と企業間の激烈な競争の原因となった。高い操業度でなければ利益が出ない。操業度を上げるために、最先端技術を追求、最有望市場の開拓を優先する。企業は最有望市場へ戦略を柔軟に変えうるように、同質な組織になっていく。同質な企業は棲み分けができないから猛烈な競争を繰り広げる。造船、自動車、石油化学、電機業界、建設業などにも見られ、日本産業の特徴との論が多い。

矢野オーラルでは、特に鉄鋼業界において、別の視点が見られる。競争による二重投資を避けるために下記の鉄鋼業界内の協調が行われた。以下、矢野オーラル第30回である。伊藤「今日は基礎産業局長のお話です。〔昭和49年(1974)6月就任〕基礎産業局長の基礎は何を指していますか。」矢野「基礎産業という概念で、言えば、鉄鋼、石油です。石油化学はありますが、本来は石油です。要するに日本の基礎資材という意味です。」

私が〔新日鉄㈱副社長〕斉藤英四郎さんから「省として返事をしてください[6]」と言われたら、大臣のところへ行って説明する[7]。「よかろう」と言われたら、帰ってきてから、これは上げていくべきか、大臣の判断かというのは自分の判断です[8]。鉄鋼の仕事は私に任されている[9]。」

「鉄鋼業務課長には取締役は〔話をしても〕いいとか、部長ならいいとか(中略)鉄鋼業界にはルールがあって、局長に会えるのは常務以上になっている。それを飛び越して、例えば平取締役が会うというようなことは〔できない〕。役所から叱られるのではないんです。」

「永野〔重雄〕さんとか稲山〔嘉寛〕さんは偉い人ですよね。特に、稲山さんは私ども商工省の大先輩です。だから、やっぱりそこと話すときに〔呼び付けるのはいかがなものか〕と思っていた。(中略)鉄鋼業界の申し合わせというのは、いわゆる五社〔新日本製鉄・川崎製鉄・日本鋼管・住友金属・神戸製鋼〕だと思います(中略)平電炉メーカーは中小企業が多いんですね。(中略)それはみんな社長さんが来ます」

清家「新日鉄は、他の高炉四社とある程度談合ではないですが、このぐらいで通産のOKをもらうよという打ち合わせはあったでしょうね」「それはあったと思います。」

「新日鉄が圧倒的なリーダーだということは認識していますけど。独禁法もありますから、露骨にはできないと思いますが、新日鉄も心得て、あらかじめ新日鉄のデータを流して意見を聞くぐらいなやり方をすると思います。みんな集まってしまうと完全な談合ですが、一対一でしゃべるのはいいんですから。」「在庫調整と称して実際には生産調整をやったのですが、(中略)公取も通産法設置法に基づくと言われれば、それはしょうがないな。だけど、それは談合のもとになりかねない。だから俺たちは反対だと言う。じゃあ、談合のもとにならなければいいでしょう。〔談合にならないように〕チェックしてくださいと言えば、向こう(公取)は言いようがないんですよ。」。また「鉄鋼業界にはルールがあって、局長に会えるのは[五社]の常務以上になっている。」。このように鉄鋼業界では、通商産業省基礎産業局長による業界協調連携が公取との調整のもと成立していた事例である。「天下りの場合はやっぱり合意ですからね。(中略)次官が神戸製鋼を考えた。結局はどうも〔うまくいかない〕。(中略)会社としては天下りの断りをするには、「当社の社風には合いません」と」言うのです。(中略)あの人は〔嫌だ〕とは言えないわけです。だから、社風に合わないというのが大概の断りです。」

第31回オーラル、「私たちの時代は、官房審議官くらいまでは、全くないとは言いませんが、大体芸者さんが入らない接待でした。局長になって呼ばれると芸者さんが入る、いわゆる料亭という世界になるわけです。」

4.鉄鋼の設備投資調整

鉄鋼業界では、昭和499月の産構審の意見具申「産業構造の方向に」における添付資料に鉄鋼の長期需給見直しが説明され、昭和55年需要16200万トン、昭和6017800万トンと明。・記された。昭和48年度の生産量12000万トンを遥かに凌ぐ見直しで、先行きを強気に読む関西メーカー[10]から高炉建設の声が上がった[11]。鉄鋼の高炉建設については、影響が大きいので官民協調して調整に当たるとされていた[12]

30回オーラル「鉄鋼の設備投資調整は明らかに河本さん〔通産大臣昭和49年(1974)12月9日~51年(1976)12月〕に呼ばれました。国会の質疑があったあと、しばらくして河本さんにちょっと来てくれと言われて、「設備投資調整なんて必要か」と。要するに、こんな制度はやめたらどうだというサジェスチョンですね」

31回オーラル「企業サイドとしては、少なくとも私が見る限り、やっぱり鉄鋼は伸ばしたいという意識がありました。私のときが最高でしょう、48年度に12千万トン、49年度が11千万トンぐらい」

31回オーラル「韓国も、ちょうど私の時は第1基が完成するぐらいでした。」

第31回オーラル「私が関連したときの設備投資調整で言うと、稲山さんはどちらかというと、いわゆる関西三社(当時の住金、川鉄、神戸製鋼)の動きには非常に批判的でしたが、中国とか韓国の拡大にはわりと前向きに対応しておられた。逆に言うと、そういうところにあるのだから、あまりこっちでやらないほうがいいと思われた。私には、鉄鋼連盟の会長さんでもありますので、「どうも関西の三社には困ったものですよ」という言い方をされました。」

31回オーラル「その当時ですから、次官多いんですよね。新日鉄に徳永、日本鋼管に松尾〔金蔵〕、住金は熊谷〔典文〕さんの前で、石井秀平さんで、これは局長ではなく部長級でしたそれから川鉄に川出、(中略)月に1回、通産出身の鉄鋼の役員が集まる。そこに局長も来てくれと言われた。」

結果として、住友金属工業、神戸製鋼、川崎製鉄の順に着工された。第31回オーラル「結局、設備投資調整は私の代で終わってしまいました。」

5.レアメタル

特に、現在に繋がるレアメタルについて、レアメタル備蓄協会[13]への出資についてのオーラルは、鉄鋼業界の消費側からの行政として始まった。以下矢野氏オーラル第31回。

「レアメタルは本来は鉱山です。ただ鉄鋼は消費者の立場なんですね。(中略)これは特殊鋼を作るときの材料ですから、消費として確保したいというのが特殊鋼業界です。レアメタル備蓄協会というのは、できたレアメタルを消費をするための資材として、そこで備蓄しましょうという感覚です。」「資源エネルギー庁が、そんな必要ないよ、俺のほうでちゃんと備蓄をやる。自分たちが生産・輸入したものを備蓄。心配ないだろう、と言ってくれれば、それでもいいんですよね。ところが、鉄鋼グループとしてお金を出してレアメタルの備蓄協会を作っているんですね。(中略)要するに、備蓄協会を作るために鉱山からお金が出るかといったら、ほとんど出ないですよ、やっぱり資本力の差ですよね。」

レアメタルについて、生産についての視点が欠けていたことが、現在の中国依存の遠因となった。

6.結語

高度成長の牽引役となった通産省において、矢野俊比古氏は通産省産業資金課長を経て、基礎産業局長になった。基礎産業局長になった1974年、鉄鋼業の生産量は頂点に達した。ここで、矢野局長は、2つの選択肢があった。業界の増産体制の加速か、ストップか、の2択であった。その結果は業界の増産体制を止められなかった。

本オーラルは今回その点についてのデータとなった。過去の高度成長期の鉄鋼業の設備投資調整の成否が、その後の日本経済に大きな影響を与えた点について、矢野オーラルで、さらに検討が加えられると思われ、今後オーラルの内容を読み解き、研究を継続したいと考えている。また高度成長期の行動が、現在に影響を与えているといったレアメタルの事例などについても資料の公開を行った。

 

 

 

 



[1] 東京出身、192411日生、1948年東京大学法学部政治学科卒、同年商工省入省、通商産業省産業資金課長など、基礎産業局長、産業政策局長から、1980年通商産業事務次官に就任。19816月に退官し、1983年第13回参議院議員。

[2] オーラル第1回20091112日~422012127日×2時間聴取時間84時間を行った(伊藤隆東京大学名誉教授・近現代史と清家の2人で行い、国会図書館憲政資料室に保存)。

[3] 元国務大臣・元大蔵省事務次官相沢英之氏に対し、オーラル第1回200958日~342012611日まで34回×2時間=聴取時間68時間。

[4] 矢野俊比古(1982)『日本株式会社の反省 わが国産業の新しい活路』日本工業新聞社

[5] 相沢氏オーラルによると、昭和20年代主計局が予算、財投、銀行融資を全部掌握していた。主計官は、国家プロジェクトに関して、予算、財政投融資、銀行融資を使い分けていた。なお銀行の短期金利は日銀が担当し、長期金利は大蔵省が担当した。

[6] 第31回オーラル「いきなり斉藤さんが私に面会に見えた。あれは四時くらいに見えたと思います。だからアポイントは三時ぐらいにあったんでしょうか。それでいきなり話が出た。下から、鉄鋼業務課長を通じてこういう動きがありますという情報は何もなかった。ですから、私は鉄鋼業務課長も局長室に呼んでいません。一対一の話だった。そのときに彼が言うのは、「値上げの幅は、一万円台、五桁、それから九千円台と七千円台」。そんなことはうちの中では詰めていないわけです。(中略)「やっぱり、五桁はまずいでしょうね。と言って、四桁としたときに下のほうでは、それでもというご意見だけれども、まあできるだけ余裕を持ったほうがいいでしょう。それなら九千円台ですな」と、僕は何の知識もなしにぽんと返したんですよ。そうしたら、斉藤さんが「いやもう、それで結構です。局長にそのご了承をいただいたら結構です」と。

[7] 第31回オーラル「私からどうしても大臣にすぐ会いたいと伝えた。(中略)大臣が、「それじゃこれぐらい経ったら来い。そうすれば、委員会の出席をちょっとずらして控室で会おう」というので、控室で会って、私が話しました。もう大臣も「君の判断で結構」と言う。即決ですよ。」

[8] 第31回オーラル「斉藤さんに、大臣の了解をとったから、それで作業してくれと言った。」

[9] 第31回オーラル「帰ってから鉄鋼業務課長に話をした。それから小松〔勇五郎〕次官に話に行った。(中略)「鉄鋼が自動車と交渉するときには、初めに「通産省のご了承は、河本大臣までいただいています」とやるんですよ。」(中略)わざわざ斉藤さんがいきなり飛んできた。鉄鋼業界もそういう

 

[10] 住友金属工業㈱熊谷典文社長、鹿島3号炉の建設を求める。川崎製鉄㈱藤本一郎社長が千葉6号炉、神戸製鋼所㈱鈴木博章社長が加古川3号炉の建設を求めた。

[11] 31回オーラル「ある程度の規模を持つ企業は、みんな高炉メーカーに転換したいわけです。」

[12] 談合を招きやすいと公正取引委員会が問題視していたが、昭和416月通産省山本重信事務次官と公正取引委員会竹中喜満太事務局長との間で覚書が結ばれ、鉄鋼設備(高炉)についての投資調整のための官民の協議は独禁法上問題とならないことが確認された。

[13] 昭和51年度予算で、レアメタル備蓄協会 (仮称) の基金について

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