日本政府の意思決定システム
Decision making system of Japanese government
清家彰敏
Akitoshi SEIKE
Abstract
The ultimate goal of the Abe prime minister’s
office (2012 -) in the decision making system of the Japanese government is to
create a government that can draw out the benefits of global scale and
diversity without paying a breathtaking sacrifice such as bureaucratic control
or hierarchical authority, and concentrating management efforts on personal
power and self-preservation.
People always overestimate too much how
politics is complicated. With most global policy decisions, there are 3 or 4
key competitors, which are known. Moreover, there are not so many options that they can do with policy
decision-making.
The Japanese decision system of the office
of the prime minister is developing a procedure that accelerates the cycle,
operates information in the organization, provides quick and effective
feedback, and evaluates and rewards managers with qualities such as openness,
frankness and confidence.
Currently, the evaluated people in office
of Prime Minister are only experts for the important department supporting
financial personnel and others in the field. The staff is no longer just a
refutation or a question, but a helping person. This is a change in thinking in
the Japanese government.
Keywords
Abe prime minister’s office decision making system Japanese government
policy decision-making
1.序論
日本政府の意思決定システムは、政治家・官僚を志す若い人にとって、政治と連携する経営者、管理者にとって大きな関心である。また、これから高度成長しようとするインド、安定成長に移行しようとする中国にとっても関心が高い。日本政府の意思決定システムは、高度成長期・安定成長期における大蔵省による護送船団・官僚主導から、低成長期における安倍晋三総理の競争市場・政治主導へと変化してきた。
日本政府の意思決定システムの究極の目標というのは、官僚的統制とか階層的権威といった、息の根を止めるような犠牲を払うことなく、かつ個人的権力とか自己保存などに経営努力を集中することなく、世界的な規模と多様性が持つベネフィットを引き出すことのできる政府を創りだすことである。本稿は第2次安倍晋三内閣(以下安倍内閣)の意思決定システムは、史的に成功した機能を包含すべきである旨を論じる。
元国務大臣・元大蔵省事務次官相沢英之氏[1]に対し、オーラル第1回2009年5月8日~34回2012年6月11日まで34回×2時間=聴取時間68時間、元参議院議員・元通商産業省事務次官矢野俊比古氏[2]に対し、オーラル第1回2009年11月12日~42回2012年12月7日×2時間聴取時間84時間を行った(伊藤隆東京大学名誉教授・近現代史と2人で行い、今後国会図書館憲政資料室に永久保存の予定である)。また本稿は、相沢氏の加筆修正とキャッチボールで確認することができた(2016年)。
2.大蔵省主計局主計官と投融資ミックス
高度成長期から安定成長にいたる時代の日本政府の意思決定システムは日本でもっとも成功したと考えられる[3]。1947年の臨時金利調整法で金利の最高限度が規定、資金不足の企業へ復興金融公庫からの低利融資が行われ、1949年のドッジライン以降、復興金融は貸出が禁止され、1951年日本開発銀行(政府全額出資:現日本政策投資銀行)が設立され、日本興業銀行、都市銀行などと産業インフラ、企業への融資を行い、高度成長期が始まった[4]。この融資はインフレ率より金利が低い低利融資であった。
借入金の支払い利息が法人税で損金参入されるという産業政策も融資の伸びに貢献した。主計官は、産業競争力に関わるプロジェクトに、必要資金(原子力発電所なら1兆円にものぼる)を、予算と投融資ミックス(低金利政府系金融、高金利銀行融資、民間投資)を考慮し、査定を行った。査定によって債務返済負担が変わるため、経営者の挑戦意欲に大きな影響を与えた。主計官と通商産業省産業資金課長、銀行は連携し、高度成長時代、設備投資のための資金量の確保で企業の手助けをした。
産業資金課長の職務は矢野氏オーラル[2]第26回によると「通商産業省の原課は補助金、出資となると一般会計から要求する。金利が付いてもいいような事業、融資は日本開発銀行などから借りる。通産省の産業資金課がまとめて大蔵省に持っていく。銀行はより高い金利であるが、財投がついた段階で融資を行う。日本開発銀行がいいのなら、政府がいいと言っていれば、俺も安心だとやった。」である。
相沢氏によると、昭和20年代主計局が予算、財投、銀行融資を全部掌握していた。主計官は、国家プロジェクトに関して、予算、財政投融資、銀行融資を使い分けていた。なお銀行の短期金利は日銀が担当し、長期金利は大蔵省が担当した。
鉄鋼業は、最新技術を追求した大規模設備と投融資における借入の比率の大きさが産業競争力と企業間の激烈な競争の原因となった。借入金の大きさは損益分岐点を押し上げ、高い操業度でなければ利益が出ない。操業度を上げるために、最先端技術を追求、最有望市場の開拓を優先する。その結果、投資の矛先は時代ごとに刻々と変化せざるをえない。企業は矛先をどちらへでも柔軟に変えうるように、多能かつ同質な組織になっていく。多能で同質な企業は棲み分けができないから相互に猛烈な競争を繰り広げる。投融資における借入金の大きさは、造船、自動車、石油化学、電機業界、建設業などにも見られ、日本産業の特徴となった。この特徴の形成に主計官の投融資ミックスの影響が大きかったと思われる。
最先端技術、世界市場を狙ったプロジェクトは、主計官の査定において好印象となる。主計官は、投融資ミックスで、予算、金利の安い財政投融資の比率を高くし、企業の返済負担を減らす。これが、主計官が日本の産業競争力を作り上げることに貢献してきた構図である。
3.大蔵省から内閣への投融資ミックス機能の移転
相沢氏によると「昭和30年代主計局長森永貞一郎のとき、経済財政政策を円滑に進めるためには、予算の編成、税制、財政投融資を一体として運営しなければならない。当時、主計局総務課が実質的な財政投融資の審査をしていた。・・・理財局に財投の権限を移した。」。大蔵省主計局から理財局へ財政投融資の権限が移り、予算と財投の制度的分離が起こり、主計官の投融資ミックスの機能は大蔵省の中で縮小が始まった。
1980年代以降ベンチャー投資ブームが起こった。これ以降、成長への投融資ミックスにベンチャーキャピタルが加わった。この主役は通商産業省である。この結果、成長先への投融資ミックスは予算・低利融資・高利銀行融資・ベンチャー投資の4つとなった。その結果、投融資ミックスの決定権限の一部が、大蔵省主計官から通商産業省へ移った可能性がある。産業基盤整備基金[5]はNTTの民営化による発生した株式売却収入を原資として、産業投資特別会計が出資して1986年設立された特殊法人で、通商産業省はこの基金を利用して研究開発等への出資を行った。
それに対して、総理のリーダーシップは、日本経済の拡大とともに、海外の政治指導者、巨大企業経営者との緊張の中で徐々に強化された(牧原出,2013)中曽根康弘内閣(1982年11月~87年11月)はリーダーシップ強化、内閣強化として、官房長官を各省に対して優越させ、審議会などを活用した。橋本龍太郎内閣(1996年1月~98年7月)は省庁を削減(城山・細野,2002)し、内閣に特命担当大臣を設置し、各省を越えた政策決定、調整を行わせた。大蔵省が解体され、1990年代からの護送船団方式への内外の批判と行政改革により、財務省、金融庁に分離し、予算・財政投融資と銀行融資の分離が起こった。小泉純一郎内閣(2001年4月~06年9月)は内閣官房に企画権限を付与し、各省庁に基本方針を出した。主計官の機能は剥ぎ取られ縮小されたが、投融資ミックスの司令塔として、内閣の経済財政は財務省出身の首相秘書官が担当した。内閣官房は200名から800名へと拡大させた。
第2次安倍晋三内閣(2012年12月~)は、官房長官が全体を掌握し、可能な財政政策の範囲で、公約に掲げられた項目について諮問機関の審議で意思決定を行った。予算編成過程には財務省が影響を与えた。主計官の機能はさらに剥ぎ取られ縮小される中で、投融資ミックスの司令塔は、小泉内閣の財務省から、安倍内閣では経済産業省(旧通商産業省)系の官僚に移った。経済産業省からの官僚が内閣官房の重要ポストに配置された(牧原出,2013)。
その理由は、1980年代以降のベンチャーブームは、融資中心の大蔵省(現財務省)による経済支配を、通商産業省(現経済産業省)主導の投資中心経済へ転換させていたため、政府の意思決定における投融資ミックスは、重心が大きく投資に傾いていたからと思われる。
4.安倍内閣の意思決定システムにおける柔軟性
安倍内閣の意思決定システムは、経済財政、投融資ミックスで、多くの経済実験を行おうとしている。官僚はいつも政治がいかに複雑化という点について過大に評価しすぎる。たいていの全世界的な政策意思決定での、重要な競争相手は3,4か国であり、どこの国か分かっている。しかも、政策意思決定に伴って選択肢はそれほど多くはない。
主計官制度にはもうひとつ組織的な工夫があった。主計官は多能化し、柔軟な組織構造、職務割り当てがなされているなど、組織論、組織間関係論で説明できる可能性がある。「名刺にも主計官が何省を持つということは何も書いてない」(「相沢英之オーラル16回p19~大蔵事務次官(5)変革の提案参照)主計局の主計官、主査は、財政民主主義の法律、政令の拘束、制限の中であっても、その投融資ミックスの判断を、極めて柔軟に行いえた(「相沢英之オーラル16回同上参照)。「(主計官の)所管は、言うなれば自由自在にできるんです」主計官の職能は、柔軟なだけでなく、相互にオーバーラップするなど職務の境界が曖昧になること、職務において代替性を持っている。現在世界の民間企業などに見られるプロジェクト組織、マトリックス組織、ネットワーク組織にも対応しうる柔軟さで特長づけられる。また代替性は、「職務の多能化、汎用化は競争をもたらす」につながり、主計官の相互の競争による職務レベルの向上にも繋がった可能性がある。「主計局には主計官という制度があるんですね。あれは次長が三人で主計官が九人なんです。一つの次長が三人ずつ主計官を持っているんですね。その主計官の制度のいいところは、相沢主計官と呼ばれて、名刺にも相沢主計官が何省をもつということは何も書いていないんです。」
憲法、法律、政令の縛りがあるため職務が硬直的になると考えられてきた中央官庁局課の査定において、硬直的な各省庁を柔軟な主計官が査定する。これは絶妙な補完関係となった。この主計官制度における柔軟性が、安倍内閣で機能している。可能な財政政策の範囲で、公約に掲げられた項目について、経済産業省からの官僚が、柔軟な司令塔として硬直的な各省庁に指示を行う。安倍内閣は、サイクルを加速化し、組織内の情報を動かし、迅速かつ有効なフィードバックの提供をし、開放性や率直や自信といった資質でプレイヤーを評価し報いるような手順を開発中なのである。
5.省庁に対する安倍内閣の情報優位性の確保
大蔵省主計官と通商産業省産業資金課長の連携が高度成長期、安定成長期成立していた。産業資金課長になると大蔵省、日本銀行、日本開発銀行、日本興業銀行と接点が出来、それまでの通商産業省の人脈と異なった金融界人脈を拡げることができ、事務次官か事務次官候補まで出世した(日本政策投資銀行A氏)。産業資金課長は業界との産業ネットワークからの情報をもち、大蔵省が銀行からの金融ネットワークからの情報を持っていた。
産業資金課と原課が各企業からの要望を取りまとめる際に「日本開発銀行」が大きな役割を果たした。ただし、日本開発銀行はMOF(主計・理財・特金)の所管であり、予算要求のとき、MOFと十分すり合わせながら、産業資金課経由で要求する形をとっていた。実質的にはMOFは日本開発銀行を通じてこの予算策定作業をコントロールしていた(同A氏)。また日本興業銀行(興銀)の役割についてであるが、大蔵省は興銀を通じて長期金利を管理していたといえる。興銀に長期債発行金利+αで長期プライムレートを決めさせ、その金利より安く政府系金融機関の金利を決定していた(同A氏)。主計官は上記の情報の結節点であり、情報を統合できる存在であった。情報の結節点・統合機能を安倍内閣は目指している。
6.法制局の機能と安倍内閣の挑戦
相沢氏によると、大蔵省主計局、経済企画庁官房長、大蔵省主計局長、事務次官、経済企画庁長官(国務大臣)の体験から、日本政府の司令塔のイメージは「財務省主計局が、旧経済企画庁的な機関のリーダーシップの元、旧行政管理庁、法制局と調整を行う」モデルである。例えば、米国の予算局は法制局を内包しているが、日本政府では、主計局は法制局との対立さえ起こりうる。法律案が予定している施策は財務省の主計局法規課により審査、次に内閣府法制局が憲法、既存の法律と整合しているかどうかチェックする。このチェックなしに法律案は国会に提出できないので、司令塔は法制局を内包すべきとのことである。安倍内閣の目指す方向である。
7.結語
日本は、海外の都市インフラ開発、トップ企業の世界市場制覇、国内のインフラ再構築、東京オリンピックなど産学官で国家の意思として予算+投融資ミックスを構想する時代に入っている。その司令塔としての内閣の構築が課題である。現在、安倍内閣にいる(評価されている)人たちは財務、その他現場の人を援ける重要部門のエキスパートだけである。安倍内閣のスタッフは、反駁したり質問したりするだけの存在ではなく、各省、産官学に対して情報優位を持ち、指導を試みようとする存在である。これは官僚の意識革新である。
安倍内閣は、高度成長期等に主計官制度が持っていた①投融資ミックスの実現、②柔軟な官僚組織、③情報の結節点・統合機能、④法制局の内包へと動的に変化しようとしている。
注
[1]相沢英之氏は田中角栄元総理大臣と同年齢でオーラルの近現代史的価値は大きい。
相沢英之氏(あいざわひでゆき):1954年11月主計局主計官-1963年6月主計局法規課長-1964年7月主計局総務課長-1965年6月近畿財務局長-1966年7月主計局次長-1969年8月経済企画庁長官官房長-1970年6月理財局長-1971年6月主計局長-1973年6月大蔵事務次官-1974年6月退官、1976年12月衆議院議員-1990年2月国務大臣経済企画庁長官就任-2000年7月国務大臣金融再生委員会委員長就任。
[2] 矢野俊比古氏の記憶力は驚異的で通商産業省の政策立案、行動が丹念に記録できた。
矢野氏(やのとしひこ):1948年東京大学法学部政治学科卒、商工省(現経済産業省)入省、産業資金課長、基礎産業局長、産業政策局長を経て、1980年事務次官就任、1983年参議院議員当選(1期)、2013年死去。
[3]日本政策投資銀行(2002)『日本開発銀行史』日本政策投資銀行
[4]日本政策投資銀行(2002)「4.経済復興と政策金融 第1節第2次世界大戦直後の政策金融 第1章日本開発銀行の設立と初期の政策金融」『日本開発銀行史』日本政策投資銀行
[5]産業基盤整備基金は中小企業総合事業団、地域振興整備機構とともに中小企業基盤整備機構に平成2004年統合された。
参考文献
足立伸(2002)「財政・会計制度」城山英明・細野助博編著『続・中央省庁の政策形成過程』(中央大学出版部)
牧原出(2013)、政策決定における首相官邸の役割、2013年6月27日
https://www.nippon.com/ja/features/c00408/
城山英明・細野助博(2002)「中央省庁等改革(橋本行革)とその後の課題」城山英明・細野助博編著『続・中央省庁の政策形成過程』(中央大学出版部)