2011年10月9日日曜日

東アジアにおける日本と中国の対峙を経済と流通からみてみよう(1)

経済は交換のみですべて説明できる。経済は交換の量と回数で決まる。量は生産、回数は流通で決まる。経済は生産と流通である。作るか運ぶかである。どちらが市場において優位になるかで、歴史が変わる。どっちをやれば身が立つか、儲かるか、成功するかである。国家も生産国家と流通国家に分けられる。国家での権力争いも生産派、流通派の対立もある。源氏は生産派、平氏は流通派がベースであり、それが自らの運命と国家の歴史を決めた。
 流通原理でいうと、古代中国における春秋戦国の国家の国力を、流通に関わった人の数で考えてみよう。4km/h(歩行速度)×人口×40kg(運搬能力)=160×人口が「時間当たりの総流通能力」であった。秦、始皇帝の登場は、騎馬の速度(~20km/h)、駱駝の運搬能力(~500kg)によって、時間当たりの総流通能力160を1000以上へ向上させた。10倍近い向上は過去の政略、戦略、戦術をすべてリセットさせ覇業を達成させた。覇業後の短期間の帝国の崩壊は、10倍の時間当たりの総流通能力の差の構成員間のギャップを埋めえなかったことによる。次の漢帝国はまた160に戻ってしまった。それ以降の帝国はこの160と1000のギャップを長城と遠征で解決しようとする。
 流通が主役になった理由のもう一つは気温である。寒冷化すると流通は発展すると考えられる。世界的に11世紀まで温暖化が続きグリーンランドで放牧ができた。温暖化は農業・牧畜の生産力が一般に拡大し、生産の時代である。この時代までの大国は生産をベースとした。世界は12世紀から14世紀まで約300年間寒冷化していった。北に広がった人々は南に逃げ、空間は圧縮された。この寒冷化時代は流通の時代となった。流通が歴史を変える。北では寒冷化により森林の草原化が進み、騎馬の移動に有利になった。13世紀前半、モンゴル帝国の騎馬軍団がユーラシアを東から西に駆け抜け、流通支配の世界大帝国を作り上げた。
 海では大型船の時代が到来した。人、馬、駱駝の運搬能力を格段に上回る大型船は、運搬物の主役を金・絹・茶といった高価な軽量物から、陶器から鉄砲までの重量物に変えていった。経済の主役は海の大型船となった。ここで登場したのが強力な海洋国家である。  
 流通原理でいうと騎馬の速度(~20km/h)、駱駝の運搬能力(~500kg)によって、時間当たりの総流通能力1000は、4~10km/h(帆走・槽走速度)×流通人口×100000kg(運搬能力)=1000000×流通人口によって1000倍に向上した。
 ユーラシアの西、欧州では海洋国家はバイキングたちの小国のみであった。それがポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスといった強力な海洋国家が登場し、大陸国家と対峙した。アジアで登場したのは日本であった。始まりは日宋貿易で平清盛を先駆とし、初期倭寇から日明貿易、東南アジアへ広がり、中国は、初めて海に自国を脅かす存在海洋国家「日本」があると認識した。中国史に日本が真剣に登場、取り上げられるのはこれ以降である。
 これ以降、現在まで中国は海を意識することになり、21世紀において「東アジアで初めて2大国」が対峙する構図の伏線はここから始まる。
 戦国時代末期、日本は世界最大の鉄砲生産国で輸出も行った。軍隊の鉄砲装備率は世界でもっとも高く、人口も欧州列強を上回った。極めて士気が高い海洋軍事大国であったと思われる。当時の日本のリーダーは織田信長であった。織田信長が早死にし、後継を僭称した豊臣秀吉は挫折し、東ユーラシアにおいては大型船による流通主導経済体制の形成の試みは頓挫した。海洋国家日本は、東ユーラシアで成立できなかった。東ユーラシアは、流通経済的には「空白」となった。

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