経営者 土光敏夫
現在の日本、世界では大企業を抜きにビジネスを考えることはできない。ニュービジネスを起こす人の半数が大企業のスピンオフとも言われている。また、主婦、学生にとっては大企業は未知の存在である。また、21世紀、一人企業と相互進化するかも知れない。したがって、戦後日本の名経営者のひとりで「荒法師」、「清貧の士」、「企業再建の名人」といわれ、広く国民に愛された土光敏夫氏を通して経営の基礎知識、大企業の再建を勉強する。再建は、ニュービジネスを志す人間の”必修科目”でもある。
荒法師とは永野重男氏(元日本商工会議所会頭)が土光敏夫氏(経団連名誉会長)につけたニックネームである。他にも、ミスター合理化、経営再建男、戦闘的経営者、モーレツ社長、超人・・・イヤハヤ、たくさんある。ボロ屋に住み、ニボシを好む雲水のごとき経団連会長。朝日新聞が「清貧の士」と称え、毎日新聞の記者が「初対面だが、ぼくはあなたのファンです」と告げた。第二次臨時行政調査会の会長に選ばれ、「大増税にあえぐ、国民の熱い視線が土光さんに注がれている」と読売新聞は形容した。産経新聞は行革に取組む土光氏を「国を憂える青年の瞳」と讃えた。土光氏は財界人の中で国民的人気を持った唯一の人であったと言って過言ではあるまい。
経済人の道
土光は、岡山県に明治29年生まれた。現在、岡山市に編入された岡山県御津群大野村である。大野村は日蓮宗の信仰の厚いところとして知られ、平凡な農家の長男として育った。父は優しい性格で日蓮宗の信仰が厚く、母は男まさりのきつい性格で共に熱心な信者であった。東京高工(現、東京工大)を卒業後、石川島造船所(現、石川島播磨重工)に入社。その点で、一高、東大と進んだ石坂泰三(経団連名誉会長)らのエリートコースとは異なっている。
進学も順調とは言えず中学、高工入試で四度の挫折を経験したように優等生でもなかった。だが、世の成功者の言にあるような「エリートコースから、はずれた悔しさを人生の糧にした」とか「成り上り」といったタイプではなかった。タービンのエンジニアを志ざし、技術でもって社会に奉仕したいと願う活動的な青年。人生哲学を語り、本の好きなバイタリティのかたまりのような青年であった。
今里広記(元日本精工会長)は言う、「あの人ぐらい私利私欲がなく、正義感に燃えしかも、くったくのない人はいない」。永野重雄(元日商会頭)「信念があって正義漢。それでいて暖かい人間味がある」。牛尾治朗(ウシオ電機社長)「土光敏夫さんは人間として尊敬に価する先輩である。私利私欲はなく・・・。財界人の中で土光さんくらい清潔な人はいまい」。このような土光像は当時芽生えていたと思われる。以後、石川島芝浦タービン、石川島播磨重工、東芝と社長を歴任、経団連会長と日本の経済人として頂点に達した第一歩である。
大正9年、卒業するまで学資、生活費をすべて家庭教師のアルバイトでまかなった土光であったが、苦学の中でも人間に幅と奥行きを感じさせ、クラスの衆望を一身に集める親分的な性質も持っていた。資本論を読破したのもこの項である。
23才で、大正9年石川島造船所入社。大正11年、陸上タービン技術習得のため、スイス留学。2年後帰国。すぐに上司の栗田金太郎取締役の長女、直子と見合い結婚。栗田は当時、石川島の実質的な最高権力者であった。カミナリ親父で技術者出身の合理主義者として土光に大きな影響を与えた。
その後、石川島芝浦タービンが石川島と東芝の前身である芝浦製作所によって設立され、土光は技術部長として乗り込み、昭和12年、取締役に就任した。その後、石川島芝浦タービンの社長に戦後すぐ任ぜられ、最初の再建がおこなわれた。この再建に成功した後、親会社石川島の再建を要請される。その石川島再建の際に経営者としての土光が確立されたと思われる。
昭和30年代、造船業界再編成のはしりとなった石川島重工(戦前の石川島造船所が改名)と播磨造船の合併では、長期ビジョンの作成、会社への徹底、組織設計への展開において卓抜したやり方を見せた。
昭和40年代、生涯最大の仕事となった東芝の再建が行ない、その後、経団連会長を務め、経団連名誉会長として行政改革(第二次臨時行政調査会会長)に挑んだ。
経営計画
経営計画は環境の変化の中で行われる。「経営環境よりの情報収集」・「経営問題意識」・「経営問題の規定」・「経営課題の規定」・「経営計画の策定」の5ステップである。
情報収集・・・・・今、企業がどのような状態かを知る。
経営問題意識・・・なんとなく困ったなと感じる。
経営問題の規定・・何が問題かが明確になる。
経営課題の規定・・何をしなければならないかが明確になる。
経営計画の策定・・具体的に誰が何をすれば、課題が解決するかを決める。
この5ステップを土光敏夫を例に考えて行こう。
石川島芝浦タービンで最初の再建を行なったとき、土光は49才であった。昭和21年、戦後の敗戦処理のための社長就任である。この経営者への転進は土光の本意ではなかった。「ぼくは最大の犠牲者だよ。日本一のタービンの設計者になる事が夢だったんだ。」「人のいいところがあるから、何となく押しつけられた。経済界に60年いるが自分から希望してやったことは何もない。」
インフレ下の再建は困難を極めた。作るものがないのに従業員の生活は確保しなければならない。資金繰りは苦しい。
(情報収集から経営問題の規定までがこの間土光の頭の中で行われた)
ここで、土光は「社会に役立つ企業は社会と時代が生かしてくれるはず」という理念を重役会で徹底させた。
(経営課題の規定)
その考え方で製品が選択され、その中から採算に合う計画が採用された。
(経営計画の策定)
その計画を持って金融業界、政府(補助金)へ陳情を開始した。「社会は〇〇を必要としている。それを作るために金を融資して欲しい。」土光は押しに押した。土光の熱意と行動力が銀行、霞が関に鳴り響いた昭和24年には再建は成功した。
経営戦略
経営戦略は「予測」と「環境」と「組織の状態」の3要素で作られる。
予測・・・・・・未来についての見通し。以下の3つがある。
「時間」を予測する場合・・・いつ起きるの?
「事象」を予測する場合・・・何が起きるの?
「度合い」を予測する場合・・どの程度そうなるの?
環境・・・・・・戦略は相手があって始まる、競争企業や経済の状態が当然考えにはいってこそ、競争に勝てる。
組織の状態・・・夢も予測も環境もOKでも、やってはいけない場合がある。
それは、能力がないのに夢のようなことを、考える場合である。野球のピッチャーでここは「速い球を胸元に」投げれば絶対と思っても、遅い球しか投げられなければしかたがない。
さて、石川島芝浦タービンを再建した土光は、その後どうなって、どのように経営戦略を展開したのであろうか。
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