2010年11月16日火曜日

創業者(2) ”夢”が創った企業

事業創造

 かって事業創造に関わった人たちはあふれるほどの魅力に富んだ人たちである。ホンダ(本田技研)を創業した本田宗一郎、ソニーを創業した井深大の魅力は何万冊の本でも書きつくせるものではないと思われる。特に創業者(1)で述べた本田宗一郎とF1レーサー、アイルトン・セナの出会いと別れ”喪章でのチェッカーフラッグ”は、多くの世界の青年に事業、産業が創られていく場が多くの感動に彩られていることを認識したと思う。
 産業とは”金儲けのロボットが電卓を片手に創るモノ”ではないことを経営史研究、企業者史研究の多くは示している。技術の形成、事業創造、それは産業を、社会を創っていった人たちの”夢と勇気と知恵の涙の物語”である。
 事業創造とは何であろうか。かつて米国で世界一の金持ちになったビル・ゲーツの創ったベンチャービジネス「マイクロソフト」もその一つであると思われる。マイクロソフト社の商品はコンピュータの基本ソフトである。
 主婦のアイデアで始まったのが、洗濯機の「屑取りフィルター」である。洗濯漕のなかに小さな網をつければ、なかなか取れにくい洗濯物の糸屑等がキレイに取れる。大手の家電会社を相手にこの主婦は大儲けした。このようなちょっとしたアイデアで、誰でも作れるが、誰も気がつかなかった事業の創出も事業創造であった。
 牛どんの吉野屋も初めて店を出したときは事業創造であった。新しいやり方で、牛肉を大量に安く仕入、牛どんを大安売りした。貧乏学生でも気楽に安く牛肉が食べれ、大人気になった。牛どん屋なら誰でもできそうである。ただし、思いつきが良くないと成功しない。
 ここで事業創造は以下の3類型に分けられる。

 1.誰もが思いつくが高い技術がなければできないので、まだない。
     新技術  -- マイクロソフト社
 2.誰でもできるが、誰も気がつかなかったアイデア。
     新アイデア-- 主婦の「屑取りフィルター」
 3.商品やサービスはどこにでもあるが、やり方(システム)が新しい。
     新システム-- 牛どんの吉野屋

 もちろん、多くの事業創造は新技術だけ、とか新アイデアだけとか、は少ない。新技術・新アイデア・新システムの組み合わせである。

また、現在の大企業もかつてはニュービジネスから始まっている。

 東芝は”からくりや儀右衛門”と呼ばれた田中久重が明治8年なんと75歳に創業した。田中は幼いときから発明の天才で、天象儀(プラネタリウム)、万年時計から蒸気船まで創った。日立製作所は小平浪平が創業した。東芝、日立は高い技術を誇っている。パナソニック(旧松下電器産業)は松下幸之助が創業した。松下幸之助は家電の大量生産で日本の家庭を見る間に変えてしまった。松下の販売した冷蔵庫、洗濯機、テレビ・・・で家庭は一杯になったのである。ソニーは戦後の焼け跡の中から井深大が創業した。会社設立の目的は「大きな会社と同じことをやったのでは、われわれはかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。われわれは大会社のできないことをやり、技術の力で祖国復興に役立てよう」である。アイデアのソニーである。

 日産自動車は橋本増次郎が大正3年創業した快進社から始まる。このときの試作車DAT2号の「ダット」が日産の海外での”代名詞”ダットサンになる。日産は高い技術力で知られる。トヨタは世界の発明王豊田佐吉の長男豊田喜一郎が創業した。豊田佐吉の自動織機の発明は世界を驚かせた。その息子が創ったトヨタ自動車はトヨタ生産方式という世界的に有名な”ムダのない”生産方式で知られる。トヨタは世界で一番安く車を作れる!トヨタの販売力はアッというまに日本を米国と並ぶ自動車王国にした。ホンダは小学校卒で丁稚あがりのアイデアマン本田宗一郎が創業した。オートバイで世界一、自動車でもユニークな車で知られている。

 これを事業創造を既存の企業の創業に対応させ分類すると以下のようになる。( )内は創業者である。

 1.誰もが思いつくが?、高い技術がなければできないので、まだない。
     新技術  -- 東芝(田中久重)、日立製作所(小平浪平)、日産自動車(橋本増次郎)
 2.誰でもできるが?、誰も気がつかなかったアイデア。
     新アイデア-- ソニー(井深大)、本田技研(本田宗一郎)
 3.商品やサービスはどこにでもあるが?、やり方(システム)が新しい。
     新システム-- パナソニック(松下幸之助)、トヨタ自動車(豊田喜一郎)

 「われわれは、オートバイで世界を制覇する成果をあげたのだ。次に4輪車で夢を描くなら真っ先にF1をやろうじゃないか。極限のスピードを追求する、技術的に最もきびしいF1に挑戦しようじゃないか(本田宗一郎、崎谷、1979)」ホンダの創業者本田宗一郎は、製造業におけるジャパニーズドリーム(日本の、若者の夢)であった。

ニュービジネスが生まれる場 本田宗一郎

 ホンダ(本田技研)の創業者本田宗一郎は浜松工専(現静岡大学工学部)の社会人聴講生だった。小学校卒の本田のプラットフォームに浜松工専はなっていった。
 本田宗一郎は明治39年11月静岡県磐田郡光明村(現在の天竜市)で生まれた。父儀平は鍛冶屋で精魂込めて金物を打ち、村では長持ちすると評判であった。儀平は正直一途。他人に迷惑をかけることを最も嫌った。宗一郎は車が大好き。田舎では車はめったに見られない。車が走るといつも追いかけていった。二俣高等小学校をでるとすぐ、東京の本郷湯島5丁目にあった「アート商会」に丁稚奉公。大正11年春15歳であった(崎谷、1979)。
自動車修理業であったが、子守ばかりさせられ、つらい徒弟時代だった。半年ほどたったある日、主人から「今日は忙しくてしょうがないから、こっちへきて手伝え」と言われ、夢かと疑った。大雪の降る寒い日、自動車の下で本田はうれし涙を流しながら夢中で修理を手伝った。「この時の喜びは一生忘れませんよ。」
 アート商会で6年修行。この間主人の榊原侑三がレーサー好きだったこともあり、本田は津田沼航空隊払い下げの航空機エンジンを改造しレーシングカーを作った。いろいろなレースで優勝した(崎谷、1979)。V8型8000cc100馬力のレーサーは「風になった男」本田宗一郎の夢の第一歩であった。
 修行後のれん分けをして貰い、郷里の浜松で自動車修理業を開業。21歳だった。昭和11年、フォードのエンジンを改造、多摩川でのレースで平均時速120kmの新記録達成。ゴール前、修理中の自動車がでてきて激突。空中で3回転。顔がつぶれ、左腕がはずれ、手首骨折。意識がもどったのは病室だった。
31歳でピストンリングの会社を創業。このとき、理論の必要性を感じ、浜松工専に2年通った。これが本田のプラットフォームになった。理論の勉強だけでなく、同窓の通産省の竹島弘がやがて、”運命の出会い”、藤沢武夫を本田に紹介することになる。ちなみに本田は卒業免状を貰っていない。不要と判断した科目はさぼって試験を受けなかったからである(崎谷、1979)。
 試験を受けないと卒業証書は出せないとの校長の発言に、本田はタンカを切った。「そんなもの、映画の入場券よりくだらねぇや。」「映画の入場券なら、絶対確実に映画はみられるが、卒業免状じゃ絶対確実にメシが食える保証はないんだ。」

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