昭和25年、石川島重工は混迷の中にあった。造船業界は海軍の解体、駐留軍の船舶保有量制限により売上げは激減。その上、昭和24年から駐留軍のドッジによって、日本経済自体が資金繰りの悪化による恐慌状態になっていた。ドッジラインである。
(環境はひどい 戦後の混乱の上に、政府・進駐軍による経済引き締め)
この困難をいっそう増したものは労働争議である。旧財閥イメージの残る経営陣への不信、将来への暗い見通しは経営者への憎悪を増した。終身雇用を唱える現在の大企業のほとんどが首切りを行った時代である。
(組織の状態も最悪 従業員はやる気にならない)
昭和25年、外航船の改造工事で致命的な赤字を出し無配転落。下島勝次社長以下重役陣総退陣。この状況下で土光は社長就任を依頼された。再建は二度目であるし、53才になり経営者として、ほぼ完成に近づいていたと言ってよいであろう。
給料の遅配までおこっていた。倒産の危機にある石川島はまず浮上しなければならない。次は健全な企業形態への革新である。浮上の為の減量として経営合理化、経費圧縮、営業の強化、生産増強、技術開発の促進が計画された。次の革新の為には将来の石川島の製品の決定が必要。これがなくては減量に方向づけができず、社員に目標(ビジヨン)を与えることもできない。
造船は極めて不安な事業である。
石川造船所が嘉永6年に設立され幕府、明治政府、民営と続いてきた間、石川島の経営危機の多くは海運業界の世界的な不況の波によってもたらされた。この波は巨大すぎて一企業ではどうしょうもない性質のものである。その度に石川島は造船部門から機械部門へ方向転換しては不況に耐えた。その中でも第一次世界大戦後の造船不況は最大のものであった。それに加えて関東大震災は石川島の総資産の35%を焼失させ、長い低迷期をもたらした。この不況を石川島は産業機械、自動車工業、航空部門への進出で乗り切ることになる。
今度の再建も造船からの方向転換で乗り越えねばならない(重役、技師と協議)。
日本経済は戦後の回復期に入っている。そう考えれば国内建設に機械の需要は多い。貿易の拡大は建設の後で、造船の必要はそのまた後である。「今は船は売れない。」
(予測 時間の予測 もういっとき本業の造船はきびしそうだな)
結果として、造船ブームは機械工業の設備投資の急増よりも6年遅れた。石川島の方針は正しかった。造船主力の企業は(例えば播磨造船)石川島に昭和33年以降大きく市場で差をつけられることになる。
この転換の為には研究開発が主導しなければならない。研究開発、技術導入の決定は石川島を陸上機械産業の中心的企業へ移行させた。戦後の社会は生活必需品から順に回復していく。機械は電力、鉄鋼を継ぐ産業となったのである。
(予測 事象の予測 どの産業から復興していくのかな?)
この決定の結果に基づき4つの製品系列が選ばれた。新造船、ボイラー、起重機、産業機械である。新造船の需要の不安定さに比べて他の3製品系列は着実な予想の立てやすい(経営しやすい)成長製品だった。この意思決定は時代を先取りするという土光の経営方針の成功例と言えよう。
再建社長としての第一歩は経費節減の為の伝票、領収書の点検であった。全部の伝票、領収書を机の上におき、重役から係長まで呼んでは、その問題点をあげ議論した。伝票に書かれている結果を問題にはしない。それが作られる過程を点検する。それは伝票を見ないでもできる。聞けばよいのである。答えさせ、そのやり方、考え方を点検する。伝票の問題点とはその伝票が作られた職場と人の問題点であった。答えさせる中から意見や提案も聞き仕事のムダをなくした経費を節減させた。
これは効果をあげ、「その月から経費、冗費がガクンと減った。たしか十分の一くらいになったと聞いている」といった経理面の効果を出した。しかし、これは問題解決と同時に指示指導の意味を持つ。やがて洗練されチャレンジ・アンド・レスポンスと呼ばれるようになった。土光のOJT技法の一つである。
再建には管理者と労組(一般従業員)の協力は不可欠である。伝票の点検の際に管理者には協力依頼と意見交換を行なった。次は労組の番である。不信と敵意に満ちた労組幹部と徹夜で何日も議論し、「人員整理は絶対しない」と言明し、協力を依頼した。労使は運命共同体、再建は皆の為だ。再建のいい考えがあったら教えて欲しい。
土光は権力をふるう人間ではない。自分の用事で人を呼び出すことは非礼だと思っている。したがって頼みたい事、聞きたいことがあれば組合事務所でもどこでも一人で気楽に出かけていって話をする。
次に引責辞任した役員の中から田口連三(土光の次の社長)のみを再任し、新たに平取締役六名を選らび、代表権は土光一人のみとした。重役の給与は不信を呼ぶ一つの原因である。したがって部長の上位5人の平均額を重役の給与とする。業績回復までこれは明確に維持すると全社に宣言した。この点で従業員の不満がなくなったとは言えないが不信はなくなった。
毎週金曜日に幹部会が開かれる。その時会社中のあらゆる問題をテーブルの上に出さなければ責任は持たないと宣言した。伝票、領収書の点検の延長である。幹部は、仕事、問題に関する、あり方、考え方、やり方、をとことん直される。直さないのなら直す必要がないことを土光に納得させなければならない。毎回、大激論の場となった。このようにして経営合理化は進展した。
土光社長の就任後、一週間余りして朝鮮戦争が勃発。この予想外の「特需」は造船業界を立てなおし、減量効果も加わって昭和26年からは給料の遅配に悩むこともなくなった。
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