美の観光経済学の試論とGoogleのInternet of Things
清家彰敏
1.“美の連鎖”を形成する“観光”
観光とはその地域を旅することである。しかし、旅は空間(現在)を楽しむだけで無く、同時に時間(歴史)も楽しむ。各地域には歴史があり、その歴史と出会う場は、かつては美術館、博物館にしかなかった。しかし、文化は知識遺伝子として、地域に住むあらゆる人と社会の中に存在する。この人間、社会の知識遺伝子のなかにこそ実は歴史がある。この知識遺伝子は繋がりを持って地域独特の産業を創造した。その繋がる糸が美意識である。知識遺伝子と美意識で結ばれた集団がつくりあげた美の連鎖を考えてみよう。美意識を共有し、評価しあう集団が形成され、完結性が高まり、美の連鎖を形成する。このような美意識の連鎖は、科学者、技術者、産業人にも共通するもので、この評価の輪に参加できた人は、この美の連鎖からの人脈、知識、技術によって支えられ、観光地は美を創造し、進化し続ける、どの地域にもない独自性を持った存在となる。
2.美の連鎖の場と創造過程 美のプラットフォーム
美とは俗語的から専門用語まで極めて広範囲に使用される用語である。情報化の進展は美の創造、活用(美の販売)における主体と客体を曖昧にしている。例えば、絵を趣味とする個人は美の創造主体であると同時に美を受容する客体(消費者)でもあり、そのサークルでの創造と売買においても主体と客体は区別できない。このような集団は非営利集団であり、かつての営利集団である絵画商、放送局、出版社と区別される。
彼らは、場(プラットフォーム)を共有し、創造された美をその場に投げ込む。その知識と行動は集団で共有され、その知識、行動様式は一種の極めてローカルな文化とでも呼べるもので、知識はその解釈と創造・編集が独特の感性・共有体験・文化的排他性を持つがゆえに、独占的に使用される。20世紀は営利集団が美の創造と活用(売買)を支配した。それに対し、21世紀は、非営利集団内での横断的・文化(知識)的枠によって、美の創造、活用は容易に世界的広がりを持つ。この集団内では美の創造と活用は独占的・共有的知識が増加するほど、そのコミュニケーションの密度は高まり、美の創造と活用の効率は高まる。独占的であるがゆえに提供と使用の関係者は限定され、主体と客体に係わる者は限定されるがゆえに、一般的な美の商業的創造、活用(市場売買)における高い専門的熟練を多くの場合必要としない。したがって、主体と客体は曖昧になる。この中で、インターネットという新しい仮想世界が美の経済学の前に拓けている。
3.美の大衆化とインターネット
インターネットは社会における美の存在形式に大きな変化をもたらしている。美の存在形式として映像、音声、文章を考えてみよう。マス・メディアから一方向に個人が映像、音声、文章としての美を受けとる時代は終わり、双方向で個人、映像、音声、文章としての美を発信する時代になった。同様に個人が企業から一方向で商品・知識に転写された美を受けるのではなく、双方向の時代になってきている。個人は企業以上の存在となり、美の発信を行いうる。主婦が育児の傍ら日本や米国の映像の決定的な創造をなしても不思議ではない。
普通の市民、若者や主婦や高齢者が美を創造する。本研究では、美の創造過程と美の活用過程をいかに経営するかを模索する。美の創造と活用では営利行動と非営利講堂も相互浸透、流動化しあう。美の創造を職業とする映像製作者が、主婦の趣味での創造に競争で負けることも考えられる。また、放送局が美の活用過程で、インターネットの個人放送に場を譲る。この状況はGoogle、Facebookなどの登場、ユーチューブ、スカイプなどの情報通信環境の高度化と共に加速されつつある。
4.ユビキタスと美のエージェントとしてのネットロボット
情報化はすべての技術と同様に真善美の順に社会に受容されていく。科学の寵児として情報はもてはやされ、それが社会のどこにでも行き渡ったとき、善が判断基準として登場し、社会は批判的にそれを受け入れていく。ユビキタスとは後述するように情報が町に溢れる時代で、善を価値として評価されると思われる。この次の時代が美であるが、その前に情報化がもたらす新しい時代、その場でもネットロボット、ロボットとの人間の共生、そして「美の観光企画」まで以下で触れてみたい。
ユビキタスの語源はラテン語で、いたるところに存在する(遍在)という意味であり、インターネットなどの情報ネットワークに、いつでも、どこからでもアクセスできる環境を指し、ユビキタスが普及すると、場所にとらわれない働き方や娯楽が実現出来るようになる。ユビキタス・コンピューティングは、一人が複数のコンピュータを使う社会のイメージとしてマーク・ワイザー氏が提唱した。アクセスに使う端末は、パソコンや携帯電話に限らず、冷蔵庫や電子レンジといった家電製品、自動車、自動販売機等もインターネット接続され、ウェアラブル・コンピュータと呼ばれる身に付けるコンピュータも開発中されている。自由度を高めるため、これらの情報端末間はケーブルではなく、無線LANやブルートゥースという無線ネットワークで接続される。ゼロックスのパロアルト研究所の「ユビキタス・コンピュータ・プロジェクト」によって注目されるようになり、高速広帯域のブロードバンドとは切り離せない概念になった。
ユビキタスにおけるソフトウェアの進化は著しい。これらはエージェント、ネットロボットとも呼ばれ、サーバー、パソコン、携帯上で急速に人間の代替を行いつつある。
情報通信技術において、エージェントソフトの開発とユビキタス環境の整備が急速に進んでいる。エージェントソフトの発達がもたらす経済の変化と経営の革新は政府、企業の大きな課題である。特にエージェントが進化し、人間を代替するネットロボットになっていくと、このネットロボットと人間の共生がユビキタスの課題となる。また機械ロボット(ロボット)は、このネットロボットがサイバー世界から出て、現実世界で体を持ったと規定できる。
ユビキタス社会においては、ネットロボットとロボットに助けられ、物覚えが悪くなった高齢者が現役で働き、家事でネットロボットと電子レンジでの料理メニューを相談し、ロボット化した自動車のナビゲーションをドライバーの癖を知り尽くしたネットロボットがやってくれる。このイメージは、インターネットで結ばれた家電、自動車へネットロボットが「憑依する」といった表現がぴったりすると思われる。
検索ロボットに代表されるネットロボット、アシモといったロボットはユビキタスの場で、人類と共生し新しい社会を拓くパートナーであり、この新しいパートナーが人類とどのように関わるかについて考察する。この研究は、技術、経済、社会、心理といった各分野、学際分野の学際であり、経済効果、産業創出、社会生活の提案、企業経営の改革、消費構造の改善がその目的となるが。また、ユビキタスの場における検索ロボットから歩行ロボットまでの共通OSの構築は今後のユビキタス社会の基盤技術となると考えられる。
5.米国におけるネットロボットの始まりとInternet of Things
Neopetは21世紀はじめ米国で話題となったネットロボットであり、インターネット上で集客から広告まで行った。これが米国におけるネットロボットのはしりと思われる。①ペットを育てる無料プログラムをユーザーは受け取り、②そのペットを育てるのは実在の企業の商品を与える必要がある。例えば、ある食品のメーカーの菓子をネットペットは欲しがり、バーチャルであるがその食品を画面上で食べさせると成長する、③このネットロボットにはスポンサー企業が運営に関わっており、④ユーザーは最低限企業へのメールアドレスの申請が必要であり、⑤企業からの情報受け取りの承認度の如何により、ゲームを有利に進めることができる。⑥またユーザーにダイレクトメール・メールマガジンを送るビジネスまで行える。
メールを通してのビジネスが発展している米国らしい発想でありその後の米国のビジネスモデルとなった。米国では日本のタマゴッチから始まった育成ゲームの市場や文化はなく、このネオペットというネットロボットによる「育成シミュレーション」は米国のユーザーには新鮮であった。インターネット上の急成長サイトであり、この広告手段はバナー広告の限界を破るもののひとつといった意見も多い。
ネットロボットはインターネット上から現実世界にでると体を持ってロボットとなる。ロボットがネット(携帯、パソコン=インターネット)の中に入るとネットロボットになり、ネットロボット(ソフトウェア)が家電、自動車、ホーム機器、オフィス機器、人間型ロボットに入るとロボット(ハードウェア)になる。上記の清家の未来予想は2011年スマートシティ(スマートグリッド)の中でスマートメーター(知的電力使用量監視器)が登場したことによって現実になりつつある。世界の家庭にスマートメーターが導入され、各家庭の太陽発電・電池、自動車発電・電池などを管理する。電気が不足する家庭は電気を余らせる家庭から電気を購入する。この電気の過不足測定と売買を行うのがスマートメーターいうネットロボットである。スマートメーターがインターネット上で会話し営業し合う。それがスマートシティの世界である。Googleではこのような「ものがインターネットする」Internet of Thingsと呼んでいる。すべての家庭用機器、都市内の機器が同様にインターネットで会話、売買などを行う。人間は60億人が80億人になっても有限である。しかし機器は無数に作られ社会に存在する。現在も家庭用機器と自動車などの総数は人間の数をはるかに超えている。そのような未来社会になれば、インターネット上の会話?の大半はInternet of Thingsになると思われる。その上、Internet of Thingsは人間のように秒とか分単位の会話ではない。ナノ単位の会話となるだろう。その結果、インターネットの中の99.9999%はInternet of Thingsになる。
6.ロボットとネットロボットが創り上げるハイテク観光地
観光地への誘いはネットロボットがインターネット上で日常的に行う。これは学習型のネットロボットでお客となる都会の人々個人に、日常的に観光相談をする。声を特定の個人にして、その個人のノウハウを学習させ、お客を覚えておいて、相談に応じることが可能である。このネットロボットで対応できないときは、ネットロボットは顧客を待たせておいて、観光課の人間を呼びに行くことになる。観光課の人間もしくは、例えば、バーチャル県知事は無数にネットロボットとしてクローンを作ることができる。バーチャル県知事は、県知事と違って、間違った発言をしても許されるとか、面白いキャラクターを与えることも自由に出来る。声は県知事と同じ声である。ほぼ、95%は応対できるので、後のどうしても県知事でないと答えられない内容のときだけ、県知事が対応すると考えると、県知事が20名いるのと同じ観光誘致効果が出る。観光課の人のクローン化も同様の効果がある。
このバーチャル県知事といったネットロボットがお客を世界中から探してくると、後は、アシモといった観光案内ロボットが対応することになる。インターネットから出れば、ネットロボットはロボットに引き継ぐといった形になるので、お客はインターネット内の友達に導かれて、自然に県内へ観光にやってきて、ロボットと会うことになる。
5.美の事業の理論 欲求・起業・雇用
ここで観光事業の基礎になる事業の理論について分析してみたい。人間の欲求は時間で計られる。もっとも時間的に短いのは今日の寒さをしのぐ、明日の食事にも事欠くといった衣食住の生理的欲求の充足である。今日の寒さがしのげても将来が心配と思ったとき、安定的な生理的欲求の充足を人間は求める。貯蓄、防衛、保険といった考えがでてくる。次には、もっと長期的に安定するには相互扶助の仲間に認知されることが重要である。そこで、人間には社会認知の欲求がでてくる。集団生活をする動物にとって、集団に入れないことは危機的状況である。次にこの集団内で尊敬されることは、自分の行動原則で生きることが許されることを意味するためより集団内での生存が楽になる。しかし、集団内での評価は状況的であり、ストレスが多い。したがって、集団の短期的な評価を超えて、長期的な自己実現の欲求が出てくる。集団に合わせるより、自分の遺伝子から自分に継承された仕事を実現し、認知されたい。
最後が、そのようなローカル場での評価ではなく、時空を越えた究極価値への探求が始まる。この究極価値が真善美であり、欲求は最終的に究極価値に到達する。
欲求に対応して、事業が起業され、雇用が生まれる。衣食住の生理的欲求が、例えば漁業を起業し、漁業従事者を雇用する。究極価値の善への欲求が、教団を創造し、信徒が生じる(雇用)。中世は、究極価値の善が、多くの教団を創造し、多くの信徒が地域を反映させた。近代は、真が、科学技術を創造し、科学技術者を大量に雇用した。21世紀は、美が、美の事業例えばコンテンツ産業を創造し、美の従事者を雇用するとも考えられる。究極価値における事業化の変遷は、中世が善の事業、近代が真の事業、未来は美の事業という構図との提案が可能である。
真善美は究極価値として、位置づけられて来た。真は科学、善は宗教として知識体系、組織となり、科学は工業団地、善は寺の門前町として地域の雇用を支えてきた。善光寺、四国88箇所はその典型である。美は地域に何をもたらしてきたか。美しい風景に見せられる郷土画家、民芸品作家、彼らの活動は雇用をもたらしてきた。イタリアのローマ、フランスのパリ、日本の京都、中国の北京は大きな雇用をもたらす。
真の事業による筑波の研究学園都市は、数十万の雇用、善の事業とみなせるアラブのメッカ巡礼も同様の雇用をもたらした。この真善美の究極価値は、長期事業を創造し、長期雇用を実現する。教団は1千年を超える長期雇用である。このような真善美は人間によって支えられる。京都は美の事業都市であると同時に、善(教団)の事業都市でもある、また真(科学)の事業都市でもある。京都大学はノーベル賞学者を輩出し、その輩出の条件は「頭脳+意志+風土」にあるといわれる。京都の真善美は、人材によって支えられる。同様に世界のあらゆる地域の人材のトップは、真善美に対して深い思い入れとその素養を持った人材である。そのような人材をいかに真善美の事業に参加させるか、が問われる。
次に重要なのは合意形成であり、美の観光事業の最大の関門となる。
6.事業を進めるための合意の史的変遷
事業、特に公共事業を進めるには合意が必要である。合意は状況的理由から合意を得ようとすると時間がかかる。その場、その時期の状況で合意への過程が大きく変わることになるため、多くの関係者の参加と意思決定の連鎖が必要となり、時間がかかる。この手間をなくし、早くかつ広い範囲でトップダウンにより行うためには、関係者の広い価値共有が期待される。このために選ばれたのが、かつては、宗教と科学であった。この2つは法律へと転化、または法律の裏づけとして、事業者、特に政府に利用された。
宗教的価値を広く国民、特にエリート層に共有させ、従来の多様な行動原理、迷信といったものが、公共の利益に優先し、国家の再構築、新しい事業が行えない現状を打破するために宗教は利用されることが多々あった。この森は言い伝えがあって開発できないといった抵抗を排除するのに、優れた外来宗教を利用し、開発を断行するのが宗教導入の主目的であったとも考えられる。
このように宗教は、既成概念を打破する新たなパラダイムとして、古代に登場した。これは、究極価値である真善美のうち、善=宗教を利用した革命である。
このように、事業を進めるための合意作りを簡略化、トップダウンにするために、リーダーは状況的価値から究極価値への転換を国民に求めた。その究極価値が真善美である。歴史的にはまず善としての宗教が求められ、それが法律として確立された事例としてはモーゼの十戒等がある。宗教による公共事業の推進と言い換えてもいい。これが日本における仏教導入であり、ローマのキリスト教導入、ムガール帝国のイスラム教も同様の意味が考えられる。
しかし、中世における宗教対立、教団の武装化、政治への介入、労働者の教団への移動による生産人口の減少は、善=宗教の裏づけによる公共事業の遂行、組織改革への合意が困難になったことを示した。信長による比叡山の焼き討ち、一向宗徒の虐殺は、善=宗教による合意の時代が終わったことを意味し、焼き討ちされた教団からは多数の信徒が生産、農業の現場へ戻って新たな成長の時代を告げた。欧州ではこれはルネッサンス、科学の時代、つまり善=宗教から真=科学への合意の手段の革命を意味していた。価値は1つの真実のみへと集約されることをこれは意味していた。神の価値の対立は解消できなくても、観察、実験に基づく客観妥当性、再現性、写実といった科学的合意の前には、ニーチェのいうすべての神は死ぬしかなかった。神の死のあとに、真=科学による合意の時代が来た。科学(学問)による公共事業の推進が、かつて善=宗教によって行われたと同様に世界中で繰り返され、人類は地球を作り変え、20世紀の大繁栄を迎えた。これは大学、研究所を中心とした学問領域の拡大、成長を意味し、経済合理性は科学の裏づけのもと経済万能の合意形成を可能にした。
しかし、20世紀後半に真=科学による合意は不可能になってきた。飛行場もリニアモータカーも建設できない。
現在登場しようとしているのが、最後に残った美による合意である。美による合意は、真善と異なり、一元価値ではありえない。美は遺伝子としてすべての個人、民族が所有し、それぞれが異なる。真のように1つに定まらず、善のように他を排斥することもない。
美の遺伝子保存を考えてみると、美は、世界中で異なり、小さな村の美の遺伝子と、米国全体の美の遺伝子の差はない。世界中に分布する無数の個体からなる動物の持つ遺伝子の数と、ある特定地域にしか生息しない数百の個体しか生存しない動物と個体数の差は大きくても遺伝子の数は差がない。美の標準化、同質化が進んでいる地域、国ほど美の遺伝子の数は少ない。
7.おわりに 美のアセスメント
最後になるが、すべての観光資産を男性とは異なる女性の視点でアセスメントすればどうだろうか。その県の価値はその県が一番知らない。男性の価値を知るものは女性であり、男性が一番知らない。真は一元価値であり、善は一元へ収斂させようとする危うさを持っている。美はそうではない。美はもっとも愛する人にその評価をゆだねることにより、美となる。美とは出会いであり、一元に収斂するものではないと思われる。風を愛でようと音楽を産み出し、色を愛でようと絵画が産まれた、しかし、美は無数に時間とともに刻まれ、留めること、一元化することはできない。20世紀までの経済学は一元価値の支配を受けた真と善の経済学であり、一元化は多くの不幸の元となった。多元がもつ豊かさ、美の経済学が持つ意味「多元の経済学」を、研究者たちは、私も含めて、いつ知ることが出来るのだろうか。
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