2010年8月24日火曜日
観光ロボットと美の経済学理論
1.基盤技術
観光のロボット化ではネットロボット、ロボットはインターネットの場で、人類と共生し新しい社会を拓くパートナーであり、この新しいパートナーが人類とどのように関わるかについて考察する。
ネットロボットはインターネット上から現実世界にでると体を持ってロボットとなる。ロボットがネット(携帯、パソコン=インターネット)の中に入るとネットロボットになり、ネットロボット(ソフトウェア)が家電、自動車、ホーム機器、オフィス機器、人間型ロボットに入るとロボット(ハードウェア)になる。
この研究は、技術、経済、社会、心理といった各分野、学際分野の学際であり、経済効果、産業創出、社会生活の提案、企業経営の改革、消費構造の改善がその目的となるが。また、インターネットの場における検索ロボットから歩行ロボットまでの共通OSの構築は今後のユビキタス社会の基盤技術となると考えられる
2.情報化、ロボット化は真善美の順に社会に受け入れられる。
技術は、真(科学的価値)・善(倫理的監視)・美(文化的意味)の順に社会に受容されていく。情報化という技術も同様である。科学(真の追求)の寵児として情報はもてはやされ、それが社会のどこにでも行き渡ったとき、善(倫理)が監視・判断基準として登場し、社会は批判的にそれを受け入れていく。現在、情報が街に溢れる時代で、情報公開法、倫理的規制など、情報は監視対象として厳しく評価され始めていると思われる。しかし、すでに美(文化的意味)としてインターネット内の情報は受容されつつある。
3.美の事業の理論 欲求・起業・雇用
ここで観光事業の基礎になる事業の理論について分析してみたい。人間の欲求は時間で計られる。もっとも時間的に短いのは今日の寒さをしのぐ、明日の食事にも事欠くといった衣食住の生理的欲求の充足である。今日の寒さがしのげても将来が心配と思ったとき、安定的な生理的欲求の充足を人間は求める。貯蓄、防衛、保険といった考えがでてくる。次には、もっと長期的に安定するには相互扶助の仲間に認知されることが重要である。そこで、人間には社会認知の欲求がでてくる。集団生活をする動物にとって、集団に入れないことは危機的状況である。次にこの集団内で尊敬されることは、自分の行動原則で生きることが許されることを意味するためより集団内での生存が楽になる。しかし、集団内での評価は状況的であり、ストレスが多い。したがって、集団の短期的な評価を超えて、長期的な自己実現の欲求が出てくる。集団に合わせるより、自分の遺伝子から自分に継承された仕事を実現し、認知されたい。
最後が、そのようなローカル場での評価ではなく、時空を越えた究極価値への探求が始まる。この究極価値が真善美であり、欲求は最終的に究極価値に到達する。
欲求に対応して、事業が起業され、雇用が生まれる。衣食住の生理的欲求が、例えば漁業を起業し、漁業従事者を雇用する。究極価値の善への欲求が、教団を創造し、信徒が生じる(雇用)。中世は、究極価値の善が、多くの教団を創造し、多くの信徒が地域を反映させた。近代は、真が、科学技術を創造し、科学技術者を大量に雇用した。21世紀は、美が、美の事業例えばコンテンツ産業を創造し、美の従事者を雇用するとも考えられる。究極価値における事業化の変遷は、中世が善の事業、近代が真の事業、未来は美の事業という構図との提案が可能である。
真善美は究極価値として、位置づけられて来た。真は科学、善は宗教として知識体系、組織となり、科学は工業団地、善は寺の門前町として地域の雇用を支えてきた。善光寺、四国88箇所はその典型である。美は地域に何をもたらしてきたか。美しい風景に見せられる郷土画家、民芸品作家、彼らの活動は雇用をもたらしてきた。イタリアのローマ、フランスのパリ、日本の京都、中国の北京は大きな雇用をもたらす。
真の事業による筑波の研究学園都市は、数十万の雇用、善の事業とみなせるアラブのメッカ巡礼も同様の雇用をもたらした。この真善美の究極価値は、長期事業を創造し、長期雇用を実現する。教団は1千年を超える長期雇用である。このような真善美は人間によって支えられる。京都は美の事業都市であると同時に、善(教団)の事業都市でもある、また真(科学)の事業都市でもある。京都大学はノーベル賞学者を輩出し、その輩出の条件は「頭脳+意志+風土」にあるといわれる。京都の真善美は、人材によって支えられる。同様に世界のあらゆる地域の人材のトップは、真善美に対して深い思い入れとその素養を持った人材である。そのような人材をいかに真善美の事業に参加させるか、が問われる。
次に重要なのは合意形成であり、美の観光事業の最大の関門となる。
4.事業を進めるための合意の史的変遷
事業、特に公共事業を進めるには合意が必要である。合意は状況的理由から合意を得ようとすると時間がかかる。その場、その時期の状況で合意への過程が大きく変わることになるため、多くの関係者の参加と意思決定の連鎖が必要となり、時間がかかる。この手間をなくし、早くかつ広い範囲でトップダウンにより行うためには、関係者の広い価値共有が期待される。このために選ばれたのが、かつては、宗教と科学であった。この2つは法律へと転化、または法律の裏づけとして、事業者、特に政府に利用された。
聖徳太子が仏教を日本に導入した理由の一つは、宗教的価値を広く国民、特にエリート層に共有させ、従来の多様な多神教に裏付けられた行動原理、迷信といったものが、公共の利益に優先し、国家の再構築、新しい事業が行えない現状を打破するためだったと思われる。この森は言い伝えがあって開発できないといった抵抗を排除するのに、当時の優れた外来宗教の体系を利用し、開発を断行するのが仏教導入の主目的であったと考えられる。
このように宗教は、既成概念を打破する新たなパラダイムとして、古代に登場した。これは、究極価値である真善美のうち、善=宗教を利用した革命である。
このように、事業を進めるための合意作りを簡略化、トップダウンにするために、リーダーは状況的価値から究極価値への転換を国民に求めた。その究極価値が真善美である。歴史的にはまず善としての宗教が求められ、それが法律として確立された事例としてはモーゼの十戒等がある。宗教による公共事業の推進と言い換えてもいい。これが日本における仏教導入であり、ローマのキリスト教導入、ムガール帝国のイスラム教も同様の意味が考えられる。
しかし、中世における宗教対立、教団の武装化、政治への介入、労働者の教団への移動による生産人口の減少は、善=宗教の裏づけによる公共事業の遂行、組織改革への合意が困難になったことを示した。信長による比叡山の焼き討ち、一向宗徒の虐殺は、善=宗教による合意の時代が終わったことを意味し、焼き討ちされた教団からは多数の信徒が生産、農業の現場へ戻って新たな成長の時代を告げた。欧州ではこれはルネッサンス、科学の時代、つまり善=宗教から真=科学への合意の手段の革命を意味していた。価値は1つの真実のみへと集約されることをこれは意味していた。神の価値の対立は解消できなくても、観察、実験に基づく客観妥当性、再現性、写実といった科学的合意の前には、ニーチェのいうすべての神は死ぬしかなかった。神の死のあとに、真=科学による合意の時代が来た。科学(学問)による公共事業の推進が、かつて善=宗教によって行われたと同様に世界中で繰り返され、人類は地球を作り変え、20世紀の大繁栄を迎えた。これは大学、研究所を中心とした学問領域の拡大、成長を意味し、経済合理性は科学の裏づけのもと経済万能の合意形成を可能にした。
しかし、20世紀後半に真=科学による合意は不可能になってきた。先進国では、飛行場もリニアモータカーも建設まで膨大な時間がかかる。
5.美の合意形成理論
現在登場しようとしているのが、最後に残った美による合意である。美による合意は、真善と異なり、一元価値ではありえない。美は遺伝子としてすべての個人、民族が所有し、それぞれが異なる。真のように1つに定まらず、善のように他を排斥することもない。
美の遺伝子保存を考えてみると、美は、世界中で異なり、小さな村の美の遺伝子と、米国全体の美の遺伝子の差はない。世界中に分布する無数の個体からなる動物の持つ遺伝子の数と、ある特定地域にしか生息しない数百の個体しか生存しない動物と個体数の差は大きくても遺伝子の数は差がない。美の標準化、同質化が進んでいる地域、国ほど美の遺伝子の数は少ない。
6.おわりに 美のアセスメント
最後になるが、すべての観光資産をアセスメントするにはどうすればいいのだろうか。観光地の価値は観光地が一番知らない。男性の価値を知るものは女性であり、男性が一番知らない。真は一元価値であり、善は一元へ収斂させようとする危うさを持っている。美はそうではない。美はもっとも愛する人にその評価をゆだねることにより、美となる。美とは出会いであり、一元に収斂するものではないと思われる。風を愛でようと音楽を産み出し、色を愛でようと絵画が産まれた、しかし、美は無数に時間とともに刻まれ、留めること、一元化することはできない。20世紀までの経済学は一元価値の支配を受けた真と善の経済学であり、一元化は多くの不幸の元となった。多元がもつ豊かさ、美の経済学が持つ意味「多元の経済学」を、研究者たちは、私も含めて、いつ知ることが出来るのだろうか。それが21世紀問われている。
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