2010年9月8日水曜日
個人では世界一弱い日本人 戦争と経済の組織論
組織論を専攻していると、日本人が集団を作っているときの際立った強さに驚く
仮説を立ててみましょう。
1.日本人は集団としては無類の強さを発揮する
2.個人となると信じられないくらい弱い
この2つの仮説はあっているのでしょうか?
日本人向けの組織とは、どうあらねばならないのか、考えてみましょう。
明治以降、近現代史の日本の戦争の歴史をみると、集団での強さを表す記録が際立ちます。
第二次世界大戦のミャンマーにおけるインパール作戦を考えてみよう。戦線の帰結は別にして、その正誤、評価は別に集団としての日本人の強さという視点だけで考えてみよう。日本兵は、世界に名だたる至強のグルカ兵を相手に戦った。その際の驚異の強さは、戦陣訓・・・などの説明より、集団になったときの日本人の強さの現われとも思われる。
それに対して、一人なった、孤立させられた日本人はどのような表現がされているか?
特に虜囚となった際の、日本兵の表現は一人では何も決められず、何をしていいいか分からない、といった驚くほど個としては自立していない・・・
といった記述が見られる。
個としての日本人は弱い。集団としての日本人は強い。
その仮説が正しいならば
我々日本人はイチローのように強くは無く、イチローを目指しては行けないのではないか?
米国の経営学は個の自立が前提であるとよく語られる。
それであれば、米国の経営学が個の経営学と規定できるとすれば
日本の経営学は集団の経営学であり
米国がエリートを中心とした強者の経営学なら
日本は「個としての弱虫」を中心とした弱者の経営学でなければならないのではないか?
さて、以下の4つの前提は日本の企業の現状を正確に表しているでしょうか?
1.1990年代前半までは、熟練工と若手社員が二人一組で働くシステムであったが崩れた。
2.製造現場などで派遣労働者などが半数近く、正社員はその業務管理で手が一杯になっている。
3.小売現場では供給まで含めると24時間年中無休、正社員とパート社員は顔を合わせる時間も無い。
4.成果主義、職責給などにより、教えるより自分の成果を求める社員が増加。
仮説と前提が合っているとすれば
我々経営学者は米国の経営学の論文をどのように読めばよいのであろうか?
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